知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

徳川家康

徳川家康

徳川家康は岡崎城内で生まれ、幼少の頃は人質として苦難の道を歩み、自立した後は全国統一を目指し、転戦を続け、慶長5年(1600)天下分目の関ヶ原の合戦大勝して、天下をおさめるに至った。
以後、持前の才能を生かし、全国統一の念願を叶えると共に、徳川幕政300年の基盤をも作り元和2年4月17日、75歳でこの世を去った。

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産湯の井戸

天文11年(1542)12月26日、徳川家康は岡崎城二の丸で生まれた。

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この井戸の水を汲み、産湯に使用した。

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しかみ像(徳川家康)

世に云うしかみ像「徳川家康三方ヶ原戦役画像」は、浜松の三方ヶ原で武田の大軍に無理な戦いを挑み、負け戦となり多くの家臣を失った家康が、自戒の念を忘れることのないように描かせたものと伝えられ、顔をしかめて苦渋の表情をあらわした珍しい自画像です。

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元亀三年(1572)十月三日、27000の大軍を率いて甲府を出発した武田信玄は遠江に侵入すると徳川方の城を次々に落とし、十二月には徳川家康の居城である浜松城に迫りながら攻撃を行わず三方ヶ原に家康を誘い出し大敗させ、家康最大の危機としました。
命からがら城に逃げ帰った家康は、将としての冷静さを失った自分を大いに反省したのであります。自戒の像である「しかみ像は、やがて戦乱の世を統一し世界にかん冠たる平和国家を創り上げる礎にんったと云われる。

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嵐山大悲閣千光寺

大悲閣は禅宗寺院で、保津川の右岸を渡月橋から遡って嵐山温泉から九十九折りの石段を登りつめた山の中腹にありました。

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慶長19年(1614)角倉了以によって、二尊院の僧、道空了椿を中興開山に請じて建立され、了以は我が国の民間貿易の創始者として、豊臣秀吉に続いて徳川家康からも朱印状を得て南方諸国と交易し、海外文化の輸入に功績を挙げた人物で、国内においては、保津川、富士川、天竜川、高瀬川等の大小河川を開削し舟運の便益に貢献しました。

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遠くは、比叡山、大文字山をはじめ東山三十六峰、京都市街を一望することができます。

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       花の山 二町のぼれば 大悲閣
                             松尾芭蕉

  大悲閣

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大坂城代々城主(参)

徳川家康の台頭
慶長4年(1599)3月、豊臣秀吉の居城であった伏見城を自分の居城として、また、同年9月9日、秀頼に対し重陽の節句のお祝いのため伏見から大坂城に入城します。

この頃、北の政所は西の丸に住んでいましたが、家康の来坂直後、西の丸を家康に明け渡し京都の高台寺に移り住んでしまいます。家康はお祝いが済んでも伏見に帰ろうとせず、西の丸に居座ります。

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慶長5年2月、徳川家康は西の丸に天守閣の築造工事を開始します。姫路城の天守閣は大天守を中心に小天守がある造りになっていますが、この時の大坂城は本丸と西の丸からは離れた場所に大天守が2つあることになります。

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徳川家康と石田三成の対立
西の丸に天守閣を建てた家康に石田三成などが対抗します。慶長5年(1600)、関ヶ原で家康の東軍と三成の西軍がぶつかり、家康が勝利します。
慶長8年、征夷大将軍に任じられた徳川家康は江戸に幕府をひらきます。

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第5代城主 松平忠明
幕府は大坂夏の陣で灰になった焼け跡を整理し、伊勢亀山5万石の領主だった松平忠明を大坂城主に起用します。忠明の母は家康の長女亀姫で家康から見ると忠明は孫にあたります。

備考 大阪堺市の南宗寺境内に徳川家康の墓があります。云い伝えによると、大坂夏の陣の折、豊臣
    方の武将(後藤又兵衛の説あり)が家康本陣近くに攻め入り、慌てて籠で逃げる家康を槍で刺し、
    虫の息で堺に辿り着いた家康はそこで息絶え南宗寺に葬られたと、

    それを裏付けるものとして、元和9年(1623)7月に第2代将軍徳川秀忠、第3代将軍徳川家光が
    8月に南宗寺を訪れているという。
    明治期に旧幕臣山岡鉄舟も南宗寺を訪れ家康の墓の横に「無銘ノ塔 家康諾ス」と刻んだ石碑を
    残している。
    決定的な確証はないが可能性はあるのではという説も残っている。

大坂城代々城主(弐)

第3代城主 羽柴秀吉
秀吉は柴田勝家を破り、名実ともに信長の後継者となります。天正11年(1583)、池田恒興を大垣に移封させ、秀吉自らが大坂城主となります。

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秀吉は大坂を政治の中心地とすることに決め、大坂城を安土城のような大規模な巨城にしようとし、天正11年9月1日から工事を開始します。
天正13年に一期工事が終了します。外郭工事が終了するのは、秀吉が病没する慶長3年(1598)でした。約15年に及ぶ工事は、想像を絶する力の入れようでした。

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豊臣期の大坂城は、本丸(五層の天守閣)、山里曲輪(茶室がいくつもあり千利休が活躍した場所)、二の丸、三の丸、現在の大阪城よりも数倍広大なものでした。
下水道は現在でも使用され、建物と建物が背中合わせになっているところに溝が掘られたので「背割下水」あるいは「太閤下水」と呼ばれています。

本丸があった場所は、「豊臣時代大坂城本丸図」によると現在の天守閣がある東北約100メートルの処にありました。

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第4代城主 豊臣秀頼
秀吉の死後、子の秀頼が後を継ぎ第4代大坂城主に就きます。秀頼は年が若く、秀吉のような影響力がないため、五大老のひとりである徳川家康が次第に勢力を拡大させます。同じく五大老のひとりであった前田利家が亡くなり、ますます徳川家康の力が強大化していきます。

大坂城の石垣

羽柴秀吉掟書
天正十一年(1583)八月二十八日付の黒田勘兵衛宛ての掟書、大坂築城工事に関する指令書の中でもっとも古いもので工事の方針が書かれている。
第一条、採石場は公開とし一人独占は認めない。
第二条、石運び要員の宿舎は石場に野陣を張ること。大坂に宿舎のある者は別途対応のこと。
第三条、石運びは大石を引く者に道を譲ること。
第四条、喧嘩口論は厳禁のこと。
第五条、石運びの人夫が百姓に理不尽なことをすれば犯罪行為として断固処罰せよ、もし見逃したりす
      れば、その主人まで責任を問う

このような内容の指令書が黒田勘兵衛に与えられたのは彼が普請奉行といった重要な任務についていたからであった。

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天下人徳川家康の居城にふさわしい堂々たる石垣の巨石はどのような方法で行われたのか、
石垣の高さは内堀の東部が最高で、水面から24メートル、水深約6メートル、堀底から根石まで2〜3メートル、合計32〜33メートルと推定される。

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使われている石材は100万個とも推定され、100トンもある比類のない巨石が用いられていることも特徴の一つにあげられる。
これらの石垣は元和・寛永年間(1620〜29)の徳川再建工事によって築かれた。

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石垣築造に至る過程は筑前黒田家の覚書によると、
1.石掘割り(石切場での採石) 2.山出し(海岸までの石材運搬) 3.浜出し(水上運搬) 4.水上げと修羅曳き(石船から陸揚げし丁場まで修羅で曳く) 5.栗石持ち(栗石を丁場まで運ぶ) 6.根石置き(丁場より石を曳き栗石を栗石を運び、根石を据える) 7.石積み(石垣を積み上げる) 以上のような行程があるが、実際は堀の掘削、石の運搬路建設、石置場の整備、仮宿舎の建設などがある。

重量物運搬用の修羅

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