播州赤穂駅

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山鹿素行
江戸時代前期の儒学者・軍学者(1622〜1685)、元和8年、会津に生まれる。25歳で各大名・旗本兵法儒学を教授する、一介の浪人でありながら門弟3000人を抱かえる。

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息継ぎ井戸
元禄14年(1701)3月14日に江戸城松の廊下で、赤穂藩主浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央を切りつけるという刃傷事件が起こりました。早水藤左衛門と萱野三平が大事件を知らせるため、江戸から早駕籠に乗り4日半かかって19日の早朝赤穂城下に到着しています。
その時、この井戸で二人の使者が水を飲み一息継いで赤穂城に向かったと伝えられている。

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義士あんどん(からくり時計)
正面と背面に時計盤が、台座には義士の錦絵があしらわれていて、からくりは9時から20時の毎正時に刃傷松の廊下や勝ちどきをあげるシーンなど、ナレーションと共に楽しむことができます。

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備考 「山鹿素行」
承応元年(1652)、31歳の時に赤穂藩主浅野長直に祿高1000石で仕えることになる。素行は赤穂藩に仕えた万治3年(1660)までの8年間、「修教要録」・「治教要録」・「武教要録」などの主要な本を著し、また、約半年の赤穂滞在中には、赤穂城二ノ丸虎口の縄張りの一部変更など軍学者としての手腕を発揮しています。

その後、民間学者となり寛文6年(1666)、江戸にて「聖教要録」を出版するも朱子学批判の罪で赤穂の地に配流され、赤穂城二ノ丸内の大石頼母助屋敷の一角に預けられることになります。延宝3年(1675)の赦免になるまでの9年間、赤穂で読書と著述に明け暮れる謫居生活を送りました。この時期に「中朝事実」や「武家事紀」などをはじめ多くの著書を残したほか、自叙伝風の遺言状「配所残筆」を記しています。

配流中は、藩主や重臣のもてなしを受けることも多く、その思想精神(山鹿流兵法)は、門弟であった大石良雄をはじめ多くの赤穂浪士達に影響を与えたと伝えられている。