この歌は島崎藤村の詩に藤江英輔が曲を付した。藤村の原詩は明治30年に刊行され、「若葉集」(春陽堂)所収の「高楼」である。
その翌年、藤村は二度にわたって、小諸に恩師木村熊二を尋ね、ともに懐古園周辺を逍遙した時に、この詩想したといわれる。
明治32年、藤村は小諸義塾に赴任するが、その翌年雑誌「明星」(与謝野鉄幹主宰)に発表した。「小諸なる古城のほとり」(原題「旅情」)とともに小諸郷愁の詩である。

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藤江英輔がこの詩に作曲したのは、昭和19年暮れ、太平洋戦争の末期である。敗戦間近に学徒動員され兵器生産に従事していた同じ工場で働く学友たちに日々召集令状が届く、再会のかなわぬ遠き別れが次から次へと続く、その言葉に盡きせぬ思いを、藤江はこの詩に託して曲を付した。それはいつしか出陣学徒を送る歌となった。

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そして戦後、この歌が別れを惜しむ叙情歌として一般化した時、問題があった「高楼」を「惜別の歌」とし、「かなしむなかれわがあねよ」(原詩)を「わが友よ」に歌い替えていたことである。
幸いだったのは藤村の著作権継承者の一人である島崎蓊助と藤江は藤村全集の編集を通して面識があり、蓊助はこの編集を許諾した。以後この歌は中央大学の「学生歌」として歌い継がれ、また多くの人々に愛唱されるようになった。