ここは身を捨て農民を救った義人太郎兵衛の出生地である。
寛永十五年(1638)日野一帯は日照りが続きひどい水飢饉で米が不作で、代官に決められた年貢を出すことが出来ない状態だった。

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この村人の苦しみを見て庄屋太郎兵衛は何度も伏見の代官所へ行き、稲の立ち枯れを見聞するように陳情したが許されなかった。そこで命をひきかえに農民を覚悟した太郎兵衛は代官所へ行き、米の代わりに綿を納めることの許しを得、自害して自分の腹わたを差し出した。
代官は庄屋の行いに驚き、その年の年貢の免除を村に申し渡した。義人太郎兵衛の話は今も町の人々に語り継がれているという。