知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

日野商人

桟敷窓のある風景

滋賀県蒲生郡日野町には、「桟敷窓」と呼ばれる窓のある家屋が数多く残っている。桟敷窓とは道路に面した家屋の板塀を四角くくり抜いた窓のことで、普段は閉めているが毎年5月に行われる日野祭の際には御簾を垂らして緋毛氈をかけ、塀の内側の中庭部分に桟敷席をつくるのである。

-

日野祭は800年以上の歴史を持つ祭りで、桟敷窓は通りに出ることなく御輿や曳山の様子を見物できるようにしつらえられた窓である。

-

-

日野商人の旧家が軒を連ね、日野祭り見物のための塀に作られた桟敷窓などに往時の面影を見ることができる。

日野商人の里

最寄り駅から乗り継ぎして京都から草津へ、草津線で貴生川駅から近江鉄道に乗って日野駅へ、
今回は近江商人で有名な滋賀県の日野商人の里です。

近江鉄道

-


日野駅

-

日野は、蒲生氏の城下町として楽市令が布かれ、諸役免除の特典を与えられ商工業が栄えました。
地場産業の日野椀や売薬、帷子、小間物をもって全国へ行商することが盛んになりました。なかでも正野玄三の売り出した「万病感応丸」は携帯商品として大ヒットとなりました。

日野商人は諸国商品流通の便益を提供するものとして幕府の公認するところとなり、元禄3年(1690)、幕府による売掛代金の回収保証と東海道・中山道における特約旅館制度を二本の柱とする、日野大当番仲間を日野の全商人を集めて結成しました。
そして主に東北・関東・東海道と、京阪の間を商圏としながら、行商と店舗開設による活動を広げていったのです。とくに日野商人の店舗は、「日野の千両店」と呼ばれる、出先の商人との共同出資(乗合商内)のかたちをとった小規模であるが沢山の店舗をかまえ、それを前進基地としていくことに特徴がありました。

日野商人像

-

近江商人のなかには、近江八幡を中心とする八幡商人が早くから活躍しました。豊臣秀次の時代に建設された八幡山城下町には、織田信長の安土城下の商人や、近在の湖東の村々の人々が移住して八幡町民を構成しました。彼らは、中世の近江商人の本場である保内や五個荘の商人の流れを汲む人々でした。

また、五個荘、愛知川、能登川、高宮などの愛知川流域を中心とする地域から出た湖東商人は、特産の近江麻布を持ち全国行商を始めたのです。繊維品を主に取り扱った湖東商人は、京坂や東海道で仕入れた呉服・綿関係品を関東・信州で売却し、関東・東北で仕入れた関東呉服・生糸・紅花類を名古屋・近江・京坂等で販売する産物廻しの商法に従事しました。
記事検索
おきてがみ
web拍手
Archives
メール
  • ライブドアブログ