文化4年(1807)頃に建てられた江戸時代の商家として典型的な町屋で、昭和49年、国指定重要文化財の建築物に認定され、現在、紀伊風土記の丘に移築復元されている。
此処はその役宅跡です。

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文政八年(1825)紀州藩より「塗物江戸積株」の官許を得て大いに江戸と漆器交易し、後日方組の大庄屋を務めた。

移築復原された旧柳川邸

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柳川家は、近世以来漆器の製造販売を業とし、当代まで十一代続き、代々平兵衛を名乗り、五代目は大庄屋を務めた。
家蔵の記録によれば、文化四年(1807)四代目平兵衛の代に屋敷地を求めて普請したのが現在の建物である。この家は、もと人工の堀であった川端通りに面して建てられ敷地西側は入り江で船着場になっていたといわれる。主屋は、向かって左側に大戸口から裏に通り庭があり、その右手に田の字型に四室を造り、正面側が「みせ」と「みせおく」背面側が「だいどころ」と「なんど」で、その後ろに座敷を突き出させた町屋として標準的な間取りをもっている。
この建物は全体に保存がよく、また、材料はよく吟味され意匠も優れている。和歌山県を代表する町屋の遺構として貴重なものである。