知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

旧花田屋番屋

旧花田屋番屋(思い出の一枚)

小平町は江戸時代後期から昭和30年代に至るまで「にしん漁」で栄えた町です。
「にしん」は身欠き鰊や数の子として食用とされ、これらは京都の「にしんそば」や東北地方の「数の子豆」や「鰊の山椒漬」など全国各地に鰊食文化を育みました。しかし、多くは「〆粕」に加工され、江戸から明治時代を代表する肥料として本州へ移出され、本綿や藍などの商品作物の生産を伸ばして私たち日本人の生活を豊かにし、稲作や畑作に広く使用され私たちの食を支えていったのです。
小平町でにしん魚がおこなわれたのは鬼鹿地区と臼谷地区、鬼鹿地区には現存する鰊番屋では最大の規模となる国指定重要文化財「旧花田屋番屋」があり、経営者である親方家族の住居であると同時に、最盛期200名を超える漁夫や職人が寝泊まりする漁場の拠点となった施設で明治38年頃建築の代表的なにしん漁遺産です。

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日本海に沈む夕日

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旧花田屋番屋(重要文化財)

留萌郡小平町は江戸時代後期から昭和30年代に至るまで「にしん漁」で栄えた町です。

「にしん」は身欠き鰊や数の子として食用とされ、京都の「にしんそば」や東北地方の「数の子豆」や「鰊の山椒漬」など全国各地に鰊食文化を育みました。
又、多くは「〆粕」に加工され江戸から明治時代を代表する肥料として本州へ移出され、木綿や藍などの商品作物の生産を伸ばして生活を豊かにし、稲作や畑作に広く使用され食を支えていったのです。

旧花田屋番屋

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旧天登雁村の鰊漁家花田伝作氏によって建築されたものである。最盛期には18ヶ統の鰊定置網を経営する道内屈指の鰊漁家であった。
この番屋は5ヶ統の漁夫の外船大工、鍛冶職、屋根職、曲師等総勢200人前後の人を収容していた。

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