知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

旧遷喬尋常小学校

旧遷喬尋常小学校(思い出の一枚)

遷喬尋常小学校は明治7年に大場郡久世村にあった御蔵を転用して開学した。学校名は中国の古典である「詩経」の一節である「出自幽谷 遷于喬木」から教育者の山田方谷が命名した。
その後、建物の老朽化と生徒数の増加に伴い新築することになり、明治38年7月に着工し同40年7月に完成した。

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木造二階建で中央部を大きくつくり東西両翼棟を左右対称に配置する。屋根は棟に寄棟の小屋根を置き、正面は左右対称に突出させた切妻屋根を設ける。屋根材は、当初は天然スレート葦であったが後に中央部以外は桟瓦葦になった。
外壁は下見板張りを基本とし、筋交いをアクセントで入れる。基礎は煉瓦積みで花崗岩の切石を土台とする。設計は県の工師であった江川三郎八、監督は江川工師の紹介による中村錠太郎、施工は高橋岩吉である。

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尚、正面の屋根窓に描かれている校章は高瀬舟をデザイン化したものだが「久世」の文字が織り込まれている。この校章は江川工師自身が考案し採用されたものである。
学校建築の基本が定まった後の学校建築の典型例として、また中国地方の学校建築の歴史を知る上で貴重である。

旧遷喬尋常小学校

午前7時半頃だった。
内部の見学は9時から、せめて外観だけでもとカメラに収めた。

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帰ろうとした時、男性が来て「短時間だったら鍵を開けますよ」と、資料室で詳しく説明を受けた。
玄関を入ると、

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遷喬小学校は1874(明治7)年8月、久世村の栄町にあった津山藩の郷倉を校舎に改築して近隣の三阪、多田、鍋屋、中島、久世の各村を通学区域として開校した。

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明治13年の統計には就学児童数118名(就学率20.8%)教員3名(うち補助員1名)であった。

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その後、校名を遷喬尋常小学校とし、校地の拡大や校舎の改築・新築が行われ、この校舎は明治40年7月に完成した。

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工事費は17984円56銭で町予算の約3倍近い費用を投じた。

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木造二階建、中央部を大きくつくり東西両翼棟を左右対称に配置、屋根は棟に寄棟の小屋根を置き正面は左右対称に突出させた切妻屋根を設ける。
外壁は下見板張りを基本とし筋交いを入れる。基礎は煉瓦積み花崗岩の切石を土台とする。


木部と石部が接触するところには、一定間隔で木の腐れを防ぐため数ミリのすき間を設けている。

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二階中央の講堂は、二重折り上げの洋風格天井となっており鏡板はすべて無節の檜柾目板である。
講堂天井の風格に圧倒され未だに脳裏から離れない。
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