新港橋から本川を望む

-

大正から昭和初期頃の港と対岸の掛町の町並み、当時は今よりも川幅は広かったが交通手段が船から車に変わり役割を終えた港は道路や住宅地に埋めたれられました。

-

江戸時代初期、竹原では海を開拓して新しい田畑を開拓しましたが、塩分濃度が高すぎて失敗しました。
そんな時、竹原を訪れていた赤穂の商人から「塩田にしてみては」との助言を受け、潮の満ち引きを利用した「入浜式塩田」という画期的な方法を取り入れました。

-

日の丸写真館の左奥、山の中腹に見えるのが普明閣(住吉橋から)

-

入浜式塩田
この潮づくりは、瞬く間に竹原の主要産業と成り、310年間竹原の繁栄を支えました。

塩田から見た普明閣(西方寺)

-