全国三百藩校のなかでも規模内容ともに随一謳われた日新館であり、五代藩主松平容頌の家老田中玄宰の「教育は百年の計にして会津藩の興隆は人材の養成にあり」との進言によって五年の歳月をかけ1803年に鶴ヶ城の西側に学問の殿堂として完成した。

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面積八千坪、建坪千五百坪で幕末に飯森山で自刃した白虎隊の少年達も勉学はもちろん、「ならぬことはならぬ」の精神を学んだ。

「日新」の名は、「苟ニ日モ新タナラバ日ニ日ニ新タニ又日ニ新タニセン」の文に由来し、その教育は藩祖の遺訓を旨として、文武両道にわたる幅広い内容であり、文は漢字を主として天文学、蘭学、舎密学(化学)等にわたる多数教科制で武は兵学をはじめ、弓術、刀術等武芸全体に及び学力の水準は群を抜いていたとある。
水練水馬池(鎧、かぶとを身に付けたまま泳ぐ練習をする池)もあった。

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日新館入学前の六歳から九歳までの子供達に徹底的に教え込まれた「汁の掟」

一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ
二、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
三、虚言を言うことはなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
  ならぬことはならぬものです

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日新館は戊辰戦争で焼失したが昭和62年に復元された。