知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

朝鮮通信使

朝鮮通信使

江戸時代を通し、友好国であった李氏朝鮮は将軍に向け全12回の使節を派遣した。使節は修好・親善だけでなく文化使節としての側面も併せ持ち正使・副使・従事官の他に、朝鮮第一級の学者・医者・芸術家・楽隊・曲芸師など多彩な文化人が加わった平均500人からなる大使節団であったので沿道ではたくさんの見物客が出迎えた。

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一行は海路瀬戸内海抜け大阪から京都に入り、陸路で江戸に向かった。岡崎宿は、将軍の慰労の言葉を伝える最初の宿泊地でもあり、岡崎宿の対応は一大行事であった。

室津海駅館

瀬戸内海は、日本の海運発展の中心地で、その東部に位置する室津は古くから海上交通の要地で、すでに中世には「室津の船頭」による商品輸送がさかんでした。江戸時代になると西回り航路の発達により、室津の廻船問屋の活動は北海道にまで及びました。

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兵庫県龍野市室津駅館は、近世から近代にかけて廻船問屋として活躍した豪商「嶋屋」の遺構です。建物は、嶋屋(三木)半四郎が江戸後期に建てたもので、明治6年に一部増築しています。切妻平入り本瓦葺き二階建てという室津の町屋の特徴をよく残しています。

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オランダは、江戸時代の日本において、長崎の出島(1640年までは平戸)に在留し、貿易をすることを許された唯一の国です。オランダの商館長は、通商免許のお礼として毎年一回(江戸末期には5年目ごとに)江戸の将軍に拝礼し土産物を献上しました。
これを参府旅行(Hofreise)とオランダ人は呼びました。寛永10年(1633)に定例化され、幕末までに166回行われました。オランダ人にとっては直接日本と日本人を観察するよい機会となりました。
医者として参加したケンペルやシーボルトの日記には室津のことが詳しく書かれています。

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朝鮮通信使は、朝鮮国王の親書を日本の将軍に持参した使節団です。通信とは「信(よしみ)を通じる」ことで信頼関係を深めあう意味です。使節団は室町時代初め頃から来日し、その後、豊臣秀吉の朝鮮出兵で一時中断しましたが江戸時代になると朝鮮は唯一正式な外交関係を結んだ国となりました。
使節団一行は、正・副使を中心に500人前後で、海上では大船団を組み、陸上では大行列をつくって江戸への旅をしました。その際、海駅室津には必ず寄港し、様々な船が港を埋め尽くして、国際外交都市そのものでした。

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御茶屋井戸(牛窓)

牛窓は大きな河川がなく夏になると水争いがおこったり水売りが来たりする土地柄であって水の確保は重要な課題であった。
この井戸は岡山藩の外交施設であった御茶屋で朝鮮通信使を迎えるために承応三年(1654)六月に岡山藩により掘られたと井戸枠の側面に刻まれている。

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井戸は深く他の井戸が枯れてもここだけは枯れなかったと伝えられている。

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芳洲庵

雨森芳洲は1668年に近江国伊香郡雨森郷に生まれ、十八歳になると学問の道を志し木下順庵の門をたたいた。
やがて師の順庵の推挙で、僻遠の地、津島藩の宗氏に仕える。徳川幕府は鎖国政策を外国との交流のない時代であったが朝鮮とは「通信の国」として交流があった。

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対馬藩に儒者として迎えられた芳洲は、二十九歳で朝鮮方佐役という外交の実務を担当する役を命ぜられ対馬藩が受け持つ朝鮮外交の担い手として活躍する。

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当時は、筆談外交の時代であり芳洲は「相手国のことばが語れなくて何が交隣ぞや」と三年間釜山に滞留して朝鮮語を修得した。江戸時代の中期、三音(三ヶ国語)の通じる国際人は雨森芳洲ただ一人であったろうといわれている。

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芳洲は正徳元年と享保に朝鮮通信使に随行して「誠信外交」を実践した。
八十八歳という高齢で対馬において天寿を全うするが、その生涯は日朝友好の架け橋を渡した先駆者であり今なお輝いている。
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