知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

本陣

中屋旅館(元本陣)

京大坂道の「御茶屋」があった辺り、

-

江戸時代に栄えた東高野街道河根宿の本陣で、身分のある人たちの宿泊・休憩所となり、今に残る乳門と上段の間はその頃の遺構として貴重な存在である。
上段の間は、赤穂浪士村上兄弟一行が父の仇を討ち取ろうと夜遅くまで密談をしたところ。

-

枚方宿本陣跡

枚方宿本陣は、三矢村に建っており池尻善兵衛家が代々経営しており、天明五年(1785)に枚方宿が幕府の役人に提出した書類によると間口約20間、奥行約24間の敷地に約215坪の立派な建物が建っていた。

-

本陣は、大名や旗本・幕府役人などが休泊する施設で、原則として一般の旅人は休泊できません。
参勤交代の大名が宿泊するときは、たいそうな物々しさで、ことに御三家である紀州藩の大名行列は有名で、見物人も多かったようです。
八代将軍となる徳川吉宗も、紀州藩主時代に枚方を通ったと云われています。

-

慶応四年(1868)1月、鳥羽・伏見での敗北によって幕府の影響力は衰えると、明治新政府は天皇親政をアピールするため明治天皇の大坂行幸を企てます。その時の枚方宿本陣は天皇の休息所にあてられました。
明治3年に本陣は廃止され、明治21年には浄念寺にあった茨田・交野・讃良郡役所が本陣跡地に移りました。

助松本陣(田中家住宅)

紀州街道を堺方向から岸和田に走っていると泉大津市助松に大きな屋敷が目に入った。

-

江戸時代は紀州徳川家御用の御小休本陣として参勤交代の際に使用されてきた。本陣にふさわしい式台玄関・座敷棟・庭園・長屋門などがある。

長屋門(表門)

-

住宅の配置は、紀州街道沿いの敷地の東側にある表門(長屋門)と築地塀です。南側には勝手門及び納屋があり、勝手門を入ると正面に主屋があり主屋の西側には備窮倉が配され主屋北側には接客空間を囲うように庭園が造られています。

-

紀州街道に面した敷地は広大なもので自然豊かな屋敷林も本陣として、さらに豪農としての格式をよく伝えていますとある。

天誅組本陣遺趾

「天誅」は、そのとき暗殺者が叫んだ言葉で、「天」あるいは「天皇」に代わって誅(ころ)す、罰を与えるという意味合いで使われた。

天誅組は、代官所襲撃のあと交通の要地であった天辻峠に本陣を構えた。

-

文久三年(1863)八月十七日、大和国五條の代官所が襲撃される事件が起こった。
天誅組の乱である。
襲撃したのは、土佐藩の吉村寅太郎、備中藩の藤本鉄石ら三十八名の天誅組で、この事件は幕末史における初の倒幕を意図した挙兵とされる。

-


-

この地は鶴屋治兵衛の屋敷跡で天誅組の本陣が置かれた場所である。

本陣(矢掛宿)

矢掛宿は山陽道の十八番目の宿場町として栄え産業、交通、文化の中心地として発展した。
矢掛宿には全国唯一の本陣(石井家)脇本陣(高草家)が共に国指定重要文化財として旧姿を残している。

本陣 御成門

-

玄関

-

玄関から帳場、広間、三の間、二の間、次の間(御次席)と続き一段高い部屋が上段の間で大名や公卿の休泊した部屋である。
-

奥が上段の間

-

石井家の元祖は毛利元清の家臣石井刑部左衛門秀勝で、その三子喜元が元和6年に古市から移転したと伝えられる。
1687年代、石井治郎右衛門のころ、大庄屋役を勤め佐渡屋と号し酒造りも行い近世初期以来矢掛筆頭の豪商であった。

脇本陣(高草家)

-

土山宿本陣跡

土山宿は江戸日本橋から百六里三十二町、京都三条大橋まで十五里十七町余りの位置にある。
本陣は1634年、三代将軍徳川家光が上洛の際設けられた。当時の大名、旗本、公家、勅使等が宿泊したもので宿帳から多くの諸大名が宿泊したことを知ることができるとある。

土山宿本陣跡

本陣は明治維新で大名の保護を失い1870年宿駅制度の廃止に伴いなくなった。

 土山宿

土山宿
記事検索
おきてがみ
web拍手
Archives
メール
  • ライブドアブログ