知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

東高野街道

道明寺

昨日は朝方雨も上がったことから、石川の自転車道を北上して大和川まで行ってみることにしました。
石川橋から上流は大阪府の管理、下流は国土交通省の管理となり河川名も大和川となっていました。少し北上して国道170号線をUターン、近鉄南大阪線の土師の里駅で休憩していたら近くに東高野街道が走っていて道明寺があることに気づき東高野街道を南進する。

東高野街道

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道明寺
古墳造営に携わった土師氏の氏寺(土師寺)として7世紀に建立されたと考えられ、土師氏の子孫の菅原道真ゆかりの寺で、道真の別名道明から道明寺と呼ばれるようになったと説明している。

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もとは、道明寺天満宮の南側にあり、明治時代の神仏分離により天満宮と分離された。江戸時代の境内図から四天王寺式伽藍配置であったことが知られている。

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東高野街道

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本日の走行距離は39キロでした。

古市

古市は、定期的な市が開かれて以降、室町時代には高屋城の城下町として栄えました。

飛鳥時代の創建とされる西琳寺は、百済から渡来して我が国に文字を伝えた王仁の子孫で大和朝廷に文人官僚として仕えた西文氏の氏寺です。

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竹之内街道と東高野街道の交通が盛んになる江戸時代には大変賑わったと云われています。

酒蔵(西條合資会社)

西高野街道と東高野街道が合流する河内長野、市内唯一の造り酒屋「西條合資会社」は高野街道を挟んで北側に酒蔵と事務所があり、南側には国の登録文化財となっている旧店舗主屋と土蔵があります。
この建物は、「サカミセ」と呼ばれる旧店舗と、それに付属する桟瓦葺きの土蔵からなっています。

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東高野街道道標

京都から高野山に通じる東高野街道は堺は大小路からの西高野街道と河内長野で合流し高野街道となる。
室町末期に建設された富田林寺内町は江戸時代を通じ南河内随一の商業都市として発展し東高野街道を通って多くの旅人が行き来したとある。

この道標は刻字から1751年11月の建立であるという。

東高野街道道標


            くわえきせる
     町中             無用
            ひなわ火

道標に刻まれた刻字は、寺内町には藁葺きの家が密集し高台ゆえに水の便が悪く町全体が火事の予防に注意を払ってきたことがわかる。 
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