大坂夏の陣の激戦の一つである樫井合戦は、元和元年(1615)4月29日、樫井の地で展開された。冬の陣の和議のあと、外堀を埋められた大坂方は、この度先手をとって出陣し泉州へは大野主馬を主将として二万余りの大軍を差し向け徳川方の和歌山城主浅野長晟の軍勢五千余りを押さえようと図った。
4月28日浅野方の戦陣は佐野市場へ到着、大坂方は岸和田を越えて進撃を続け翌日、両軍の衝突はもはや避けられない状態となった。
数的に劣勢な浅野方の諸将は軍議の結果、軍を市場から安松・樫井に移した。大軍を迎え討つには市場は東は野畑が広いうえ山遠く、西は海で浜辺が広く馬のかけひきも自由な所であるから不利、それに比べて安松・樫井は東は蟻通の松原、西には樫井の松原が海辺まで続き中間には八丁縄手、その周囲が沼田のため豊臣方の大軍は動かし難い地形で、小勢の浅野方は有利だと判断した。

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一方、大坂方はここで取り返しのつかない失敗を演じた主将大野主馬は慎重な作戦を立てていたが、先手の大将塙団右衛門と岡部大学が先陣争いをし小勢で飛び出してしまった。29日未明、塙・岡部の両将を迎え討った浅野方の勇将亀田大隅は安松を焼き払い池の堤に伏せた鉄砲隊で大坂方を悩ましながら樫井まで引き下がりここで決戦を挑んだ。壮烈な死闘が街道筋や樫井河原で繰り返された。
一団となって戦う浅野方、はらはらの大坂方、まず岡部が敗走し塙は樫井で孤立のまま苦戦を続け、ついに矢を股に受け徒歩でいるところを討ち取られてしまった。
かくして樫井合戦は大坂方の敗北で幕を閉じこの夏の陣の緒戦が大坂方の士気に大きく響き、この後十日もたたない五月七日遂に堅固を誇った大坂城も落城し豊臣氏はここに滅亡したのである。