明治維新後、徳川家(府中藩)により、藩の人材育成を目的として駿府城四ツ足御門のあった定番屋敷に明治元年(1868)「府中学問所」として創設された。

翌2年「駿府」が「静岡」に改められたことにより「静岡学問所」となったが明治5年学制の施行とともに閉鎖となった。

静岡学問所


この学問所には向学心に燃える者は身分を問わず入学を許可され、当代一流の学者により国学・漢学とともにイギリス、フランス、オランダ、ドイツの洋学も教授された。
また、アメリカ人教授E.W.クラークは物理学のほか哲学や法学なども教え、廃校後洋学系の教授の多くは明治政府に登用され、開成学校(東京大学の母体)の教授など学界や官界で活躍したとある。

歴史は短期間であったが日本の近大教育の先駆けをなし明治初期の中等・高等教育の最高水準の学府であった。