海会寺跡の東に広がる広場には200年以上のあいだ営まれた村がありました。なかでも海会寺が造られた頃、とても大きな屋敷がありました。この屋敷は当時の一般的な住居と比べると数倍大きなものです。この屋敷に住んでいたのは、この辺りの村々を治めた有力者、海会寺を造った豪族でした。
この広場には海会寺が造られる以前、7世紀の初頭から9世紀代まで200年以上の間、古代の人々が暮らしていました。なかでも海会寺建立後、8世紀初頭になると集落内に巨大な掘立柱建物群が出現しました。東西に長く最も大きな建物(正殿)と南北に長い建物(脇殿)が並んで造られたのです。

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脇殿と正殿は柱列を一直線上に揃えて造られたことがわかります。建物の間隔も綿密に計算された上で建てられています。このような大規模・企画性は一般の集落では見られないもので、正殿が南側に庇をもち、正殿と脇殿の前に広場があることなどからも当時の都や役所の建物の配置を真似たものといえます。

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この役所風の建物配置は、海会寺を造った豪族が、律令国家の中心地・奈良の都にいた有力者たちの影響を受けたためと考えられています。
規模;正殿 東西13.8メートル(桁行6間)×南北7メートル(桁行3間南面庇付き)面積約97
    脇殿 南北11.8メートル(桁行5間)×南北(桁行2間)、面積59