知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

湯浅

甚風呂(戎湯)

幕末から昭和の終わりまで、四代にわたり営業していた大衆浴場で、屋号は「戎湯」というが経営者の名前から「甚風呂」と呼ばれ親しまれてきた。

個性的なデザインの塀を構えた入母屋造妻入の浴場と切妻造平入の経営者の住居が一体となっている。

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明治前期頃の建築と思われ、大正15年に一部改築修繕許可願がだされ、その際に浴室部分の大規模工事がおこなわれている。

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特徴的な外観と内部意匠は近代初頭の生活様式をよく伝えている、現在は資料館として公開している。

和歌山県有田郡湯浅町の「湯浅伝統的建造物群保存地区」内にある。

大仙堀

平安時代の頃から海運の要衝であった湯浅は湯浅広港を擁する港町として栄えてきた。
大仙堀は、湯浅港に注ぐ山田川(北川)河口に設けられた内港で築造年代は江戸時代と考えられる。「しょうゆ堀」とも呼ばれ醤油やその原材料の積み下ろしで賑わいをみせた。

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醤油醸造藏から直接小舟に積み込まれた醤油は、沖に停泊している大型船に積み替えられ、樽の中で海路を揺られながら紀州藩を後に各地へと出荷されていった。

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大正4年、湯浅に有田鉄道が開通すると港湾の荷積みを鉄道で運ぶようになり、貨物専用の「海岸駅」の線路が大仙堀の埠頭の端まで架けられた。

昭和19年に線路が撤去されたのち東側の船舶場が埋め立てられ、昭和30〜40年代には鉄道跡が道路となり浜も埋め立てられて現在に至っている。

湯浅広港周辺は時代と共にその姿を変えてきたが、今も石積みの護岸に醤油藏が建ち並ぶ大仙蔵の景観は、港町に栄えた醤油醸造文化の歴史を現在に残している。

紀伊国屋文左衛門

江戸時代前期の豪商、紀伊国屋文左衛門(紀文)は寛文九年(1669)の頃、和歌山県湯浅町別所で生まれたと推定され幼少名を文平と呼ばれた。
「紀州で商人として修行を積み江戸に出るや独創的な商才を発揮し紀州みかんの輸送や木材商として名をあげ幕府木材御用商人となり巨万の財を築いた。

その後、数多くの伝説を残して資産を整理、晩年は風流の道に入り、悠々自適の生活を送った。その商人としての独創性、勇敢な冒険心、身を引く潔さは紀州人の誇りでもある」とある。

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ミカン船伝説(ウイキペディアから)
文左衛門が20代のある年、紀州は驚くほどミカンが大豊作だった。収穫されたミカンを江戸に運ぼうとしたが、その年の江戸への航路は嵐に閉ざされていた。江戸へ運べなくなり余ったミカンは上方商人に買い叩かれ、価格は暴落した。当時江戸では毎年鍛冶屋の神様を祝う「ふいご祭り」があった。この祭りでは、鍛冶屋の屋根からミカンをばら撒いて地域の人に振舞う風習があったが、紀州から船が来ない事でミカンの価格は高騰していた。

紀州では安く、江戸では高い。これに目をつけたのが文左衛門だった。早速文左衛門は玉津島明神の神官で舅の高松河内から大金を借りてミカンを買い集め、家に残ったぼろい大船を直し、荒くれの船乗り達を説得し命懸けで嵐の太平洋に船出した。大波を越え、風雨に耐えて何度も死ぬ思いをしながら、文左衛門はついに江戸へたどり着く事が出来た。この時の様子が「沖の暗いのに白帆が見ゆる、あれは紀ノ国ミカン船」とカッポレの唄に残った。

ミカンが不足していた江戸でミカンは高く売れて、嵐を乗り越えて江戸の人たちの為に頑張ったと、江戸っ子の人気者になった。大坂で大洪水が起きて伝染病が流行っていると知った文左衛門は、江戸にある塩鮭を買えるだけ買って先に上方で「流行り病には塩鮭が一番」と噂を流し上方に戻った。噂を信じた上方の人々は我先にと塩鮭を買い求め文左衛門が運んできた塩鮭は飛ぶように売れた。紀州と江戸を往復し大金を手にした文左衛門は、その元手で江戸に材木問屋を開き、江戸城をも焼いた明暦の大火の時には木曾谷の材木を買占めて一気におよそ百万両を手にした。こうして文左衛門はしがない小商人から豪商へと出世、富と名声を掴んだ。

この伝説は文左衛門の在世中および死去間もない時期の資料には見えない。竹内誠は、この伝説は幕末に刊行された小説『黄金水大尽盃』に描かれたもので史実ではないとしている。

備考
私は、梅中軒鴬童の浪曲、「紀伊国屋文左エ門」のレコードを今も持っている。ステレオがないので今は聞くことができないが実に爽快な内容になっている。
その他、天津羽衣の「原爆の母」や京山幸枝若の「河内十人斬り」など、何度も何度も聞いた浪曲だ。

大地震津波心得の記(和歌山県湯浅)

和歌山県湯浅町の立石道標がある辻を西に進むと深専寺がある。この寺の門前に大地震津波心得の記碑が立っている。

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                    大地震津なミ心え之記
「嘉永七年六月十四日夜八ッ時下り大地震ゆり出し翌十五日まで三十一二度ゆり それより 小地震日としてゆらざることなし 廿五日頃漸ゆりやミ人身もおだやかになりしニ 同年十一月四日晴天四ッ時大地震凡半時ばかり 瓦落柱ねぢられたる家も多し 河口より来たることおびたヾしかりしかとも其日もことなく暮れて翌五日昼七ッ時きのふよりつよく地震にて未申のかた海鳴きこと三四度見るうち海のおもて山のごとくもりあがり津波といふやいな高波うちあげ北川南川原へ大木大石をさかまき家藏船みぢんにニ 砕き高波おし来る勢ひすさまじく おそろしなんといはんかたなし これより先地震をのがれんため濱へ逃 あるひハ舟にのり又ハ北側南側筋へ逃たる人のあやうきめにあひ溺死の人もすくなからずずでに百五十年前 宝永四年乃地震にも濱邊へにげて津波に死せし人のあまた有しとなん聞つたふ人もまれまれになり行ものなれハ この碑を建置ものそかし 又昔よりつたえいふ井戸の水のへりあるひハにごれハ津波有へき印なりといへれど この折には井の水乃へりもにごりもせざりし さすれハ井水の増減によらずこの後萬一大地震ゆろことあらハ火用心をいたし津波もよせ来へしと心えかならず濱邊川筋へ逃ゆかず深専寺門前を東へ通り天神山へ立のくべし」

備考
嘉永7年といえば西暦1854年、150年前の宝永4年は1707年、南海地震、東南海地震と思われる。
東日本大地震に於いても、あの強固な防波堤が無残にも崩壊している。自然は無慈悲であるがゆえに『先人の知恵や言い伝えを守るべし』 何時来てもおかしくないと云われている南海地震、

方津戸峠(熊野古道)

熊野古道 方津戸峠(方寸峠)

方寸とは、「一寸四方の狭い所」の意味であり、この峠は古来「方津々坂」「程遠坂」と呼ばれ、熊野参拝の旅人達は有田川を渡り険しい糸我峠を越え逆川王子社に参拝した。

峠に登ると遠くには日高へ越える難所「鹿が瀬峠」、又、眼下には湯浅平野、青い海原、白砂と青松という絶景が一気に広がる。熊野へはまだまだ遠いが、ここで一息入れて旅の疲れを癒したことと思われる。

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方津戸峠より湯浅の町を望む、
この峠は熊野古道の糸我峠を越えて湯浅の町に入る入り口に当たり、当時この湯浅は室町時代の頃より商業の町としての基盤ができており、この峠から見る湯浅の町は、すばらしい景色と町並みを一望できたことから、ここを通る人々は暫し足を止めて眺めたという。

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平安時代末期、湯浅荘の地頭湯浅宗重は熊野への要所である湯浅を本拠地にし、この峠の東側に有田地方で最古の「広保山城」を築き紀州随一の強力な武士団を作りあげた。

江戸時代(湯浅醤油盛況の頃)、大阪方面での醤油売上金移送には湯浅から出向いた受取人に紀州藩の役人が付き添い、この峠まで来ると正装した湯浅の業者代表が出迎えに来て礼を述べるのが慣わしで湯浅の玄関口であった。
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