知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

滋賀県日野

市橋公家紋割菱

滋賀県日野町内でただ一ヵ寺の日蓮宗の寺(経王寺)である。
明治初期に旧西大寺藩士の家に日蓮宗の道場が生まれ、それがこの寺の創立となった。

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この辺りは江戸時代一万八千石の大名市橋公を藩主とする西大寺藩(仁正寺藩)の藩士達が住んだ地域であり廃藩後、上殿町の更木戸にあった門を経王寺の山門に移した。
鬼瓦に市橋公の家紋割菱を刻むこの山門は数少ない旧西大寺藩の遺構の一つとして歴史上で重要な遺物といえる。

武家屋敷(西大寺藩)

滋賀県日野には、江戸時代1万7千石の大名として、この地に西大寺藩の藩庁を置いていた市橋公の家臣たちがこの付近一帯に屋敷を構えていたが、藩士の邸宅として一部を残すのは渡辺家だけである。

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渡辺家は市橋家譜代の藩士であり、旧祿高は110石と記録され給人格に加えられていた。藩士約300人中の上位侍であった。土塀と門は往時のまま残っている。

正野感応丸

江戸時代日野椀に代わって行商の有力商品となり、日野商人を発展に導く大きなものに合薬があった。創始者は正野法眼玄三である。
玄三は18歳の時、日野椀や茶・布を持ち行商に出たが母の病気で帰郷した。

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当時、京都の名医の診療で母の病気を治すことができたことから医師を志し、医師になった後は医薬に恵まれない山間辺地の人や日野商人の長旅用の道中薬として感応丸を作った。
この合薬を日野商人が全国に持ち歩くうち効き目が評判となり、地元日野で製造する人も増え、現在も伝統産業として息づいている。

日野越川町

滋賀県日野越川町は天文二年(1533)蒲生定秀が日野城下町を作る際、近在の人の移住を進めたが、この時愛知川宿から移ってきた人達が住んだ所で、日野町内には先住地を町名にしたものが今も多く残っている。

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交差点を見ると辻が鉤形に食い違っている。これは城下町を造る時、戦略上の必要からつけられたもので、辻ひとつにも城下町の特色を見ることができる。
町内の集会所には日野祭の祭礼記録が保存され、日野祭の歴史を知る貴重な資料となっていると記されている。

清水町の陣屋畑

滋賀県日野清水町は、江戸時代東の端に広い面積を持った陣屋が置かれていた。陣屋というのは領主にかわってその土地の行政をしてゆく代官のいる役所で主に年貢等の収納がおこなわれた。

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正徳二年(1712)になると、それまでの幕府領だった大窪は水口藩の領地に変わり、水口領の陣屋が明治初年まで置かれていた。屋敷番号は陣屋から始まり今も一番屋敷と読み取れる古い番号札が残され、陣屋の取り除かれた敷地は「陣屋畑」と呼ばれている。

塗師安

日野椀の歴史は古く、天文二年(1533)蒲生定秀が城下町を作った時、塗師や木地師を住まわせ塗師町堅地町と名をつけた。

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当時は日野椀作りが盛んで町の半分以上の家が椀に関係した仕事をしていたという。久田家も代々日野椀の木地に漆をかける仕事を続け、江戸後期、日野椀の生産が止まった時は看板や重箱、膳等に漆をかける塗師の仕事を続けてきた旧家であった。

保知煙管

滋賀県日野保知町は元和元年(1615)頃から煙管が製造されたところで、煙管を作る職人が保知町中町に住んでいたことから「保知煙管」の名がおこった。
当時の保知煙管は名が高く、多くの人達に広く使用された日野商人の重要な「持下り品」であった。

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保知煙管は火皿が大きく美しい模様が描き込まれているのが特徴で、日野の旧家には現在も保知煙管が大切に保存されているという。
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