知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

熊野古道

小栗街道(熊野古道)

雄ノ山峠を越えて熊野へ参拝する熊野古道を小栗街道と呼んでいます。小栗街道といわれるのは、不治の病にかかった小栗判官が、照手姫の土車に引かれて熊野権現の霊験を求め熊野を目指してこの道を通ったことからです。

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判官は熊野本宮に参拝し湯の峰の湯を浴びてすっかり元気になり、照手姫と結ばれました。判官は、後に、畿内五ヵ国(大和・山城・河内・和泉・摂津)と美濃(岐阜県南部)を賜りました。
この話は、説教節や和讃、浄瑠璃などに脚色され伝えられています。

湯浅町湯浅伝統的建造物群保存地区

紀州湯浅は、古代より熊野古道熊野参詣において上皇や貴族が滞在する宿所であり、平安時代末期から勢力を誇った土豪の湯浅氏の本拠地として栄えました。

中世に入り、熊野信仰が武士や庶民の間にも広まると「蟻の熊野詣」と表現されるほど多くの人々が熊野三山へ赴くようになり、室町時代後半には東部の丘陵地を通っていた参詣の道が西方の海寄りに移るとともに町場が発達し、16世紀末期頃になると、熊野街道の西方に市街地が開発され、江戸時代の寛文元年(1661)には、さらに西方に臨海市街地域が拡大されています。

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近世の湯浅は、藩内有数の商工業都市として発展しました。漁業や魚網製造なども盛んで、近海から遠く九州や関東、北海道まで漁場を開拓していますが、最も特徴的なものは、鎌倉時代に伝来した金山寺味噌の製造過程から生まれたといわれる醤油醸造です。

紀州藩の手厚い保護を受けて藩外販売網が拡張され、文化年間(1804〜1818)には92軒もの醤油屋が営業していたといわれるほど、代表的な産業となりました。

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湯浅町湯浅伝統的建造物群保存地区
保存地区は旧市街地の北西に位置し、16世紀末期頃に開発されたといわれる北町、鍛冶町、中町、濱町を中心とする醤油醸造業が最も盛んであった一帯にあって「通り」と「小路」で面的に広がる特徴的な地割と、醸造業関連の町屋や土蔵を代表とする近世から近代にかけての伝統的な建造物がよく残されている。

果無集落

果無(はてなし)坂の入り口に着きました。
熊野古道(小辺路)、ここからは果無集落までは石畳の上り坂が続く、

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開けた処からの展望、陽が当たるので暫くはとても暑い、

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果無集落が見えてきました。

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民家の庭を小辺路が走っている。

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「世界遺産 熊野詣道 小辺路」と書いてありました。

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下りはバス道でと思って100メートルほど歩くと地図があり約3倍ほどの距離がある。しかたなく、小辺路を下ることにしたが、小辺路の下りは石畳の土が雨で流されたのか、それとも最初から傾斜をつけてあるのか石が水平になっていないので足に負担がかかる。

めったに来ないバスに運良く乗れたので十津川温泉に入ってから帰る予定だったが、乗ったバスで帰らなければ次は16時前までない。まだ12時過ぎ、4時間近くも待てないので帰ることにする。五條駅着15時30分、

果無集落(熊野古道小辺路)

新宮駅前を出発した特急バスは熊野川を北上する。途中、川湯温泉、渡瀬温泉、湯の峰温泉を経由して奈良県十津川村にあるホテル昴に到着した。

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果無集落に行くには一旦、国道にでて柳本橋を渡るルートと野猿に乗って対岸に渡り吊り橋を渡るルートがあるが、ホテル昴前のトンネルを抜けて吊り橋を渡る。

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吊り橋(柳本橋) 全長90メートル 高さ10メートル
この吊り橋は板の境が朽ちているところがあるし、早く渡ろうとするとよく揺れる。

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熊野古道小辺路は、高野山から熊野に至る全長72キロの道です。

北川橋燈籠

この北川橋は江戸時代、南たもとに高札場があって板橋だった。廻船の船着場にも近く、この一帯は熊野古道の交通の要所でした。

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昭和40年代初めまで、隣町の海山町(現・紀北町)を結ぶ乗合いバスの停留所があり尾鷲市の玄関口として賑わっていました。

北川橋の四隅の親柱の上には電気の灯籠があり、町民や旅人に親しまれてきたが長い年月と津波などの被害で昭和初期に消失しました。
平成20年7月、足元を照らす「あかり」の役割と「尾鷲の玄関口」「熊野街道・中井町通りの象徴」として、その歴史を後世に受け継いでもらいたいとの想いで復活したとあります。

馬越の津波

馬越の津波供養塔
宝永四年(1707)、10月4日に発生した「宝永大地震津波」は尾鷲浦にも大きな被害をもたらした。

この塔の三面には、漢文で『男女老幼溺死者千有余人』など、被災状況や流死のありさまが彫刻されている。

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碑文には、溺死者千有余人とあるが、宝永七年(1710)幕府巡見使への報告資料には五百三十余人となっているとある。

惣廻り小屋

江戸時代この辺りに紀州藩尾鷲組の「惣廻り小屋」がありました。
責任者として胡乱者改助役(うろんものあらためじょやく)が別にいて、その支配下に「惣廻り」一名と「番人」複数名がいました。彼らは胡乱者(怪しい者)を監視するとともに、治安を乱す者を取り締まり検挙しました。

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一方、ここから2キロメートル南の旧矢濱村には「八鬼山口番小屋」があり、ここでも番人が往来の人々を監視しました。

文政十三年(1830)七月、伊予出身で西国巡礼の若い女性が一人で尾鷲に着き、路銀もなく難渋していたところ、この惣廻り小屋に泊めてもらえることになり、彼女はその夜ここで出産し七日間留まり、その費用六四二文が尾鷲組から支給されました。彼女はその後、産後の疲れも癒えない身で乳飲み子を抱かえ旅立ったといいます。

近くの商店にはこんな書き物が、

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「尾鷲組大庄屋文書」には、困窮した旅人を惣廻り小屋などに泊めた記録が毎年数十件、多い年には百件以上も確認したという。その宿泊費用は街道沿いの浦村が負担したという。

尾鷲小唄(野口雨情)

熊野古道馬越峠を下った行者堂から10分も歩けば野口雨情の「尾鷲小唄」の歌碑がある。

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     鰤は港に 杉桧は山に 紀伊の尾鷲は よいところ



野口雨情といえば想い出す。あれは平成11年10月、日本平で見た赤い靴を履いた女の子と母の銅像、他に、「雨降りお月さん」「七つの子」「船頭小唄」などがある。

馬越峠

日本古来の聖地・熊野に詣でのための道、熊野古道(伊勢路)は、平安の昔から今日まで、あまたの人々が足跡を刻んできた。その道程は歴史を後世に伝え続けてきた。

各地から熊野に向かうルートの中でも特に人気があったのが、伊勢から熊野三山を目指す「熊野古道伊勢路」だった。
その170キロの道程のなかで、今回は馬越峠(まごせとうげ)を越える小さな旅でした。

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馬越坂は、熊野道と呼ばれた熊野街道の一部で、古代からの熊野三山信仰に伴って開かれ、その後、大正初期に旧国道が整備されるまで幹線道路であった。

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麓から峠に至る約2キロのかなりの部分が敷石で舗装され、現在もよく往時のおもかげを残している。

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所在地 三重県北牟婁郡紀北町海山区相賀字馬越

立石道標

江戸時代、熊野三山への参詣道として栄えた街道で、糸我峠・逆川王子(吉川)・方寸峠(方津戸峠)・道町(湯浅)・久米崎王子と経て鹿ヶ瀬峠を越え遠く熊野に至る。

この道標(立石)は、天保九年(1838)の建立で、紀三井寺、熊野、伊勢、高野への参詣道を標示している。

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昔この一角は、聖護院及び三宝院の門跡が熊野入峰の道中、護摩を修した跡と伝えられている。

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備考 
熊野古道は中世以来、熊野三山(本宮・新宮・那智)へ参詣する人々が通った街道である。熊野詣は、平安時代の後期、、上皇(法王)・女院・貴族がたびたび三山に参詣したことをきっかけに盛んになる。
やがて参詣の主役は武士や庶民に移り、先達や比丘尼の布教活動もあって、室町時代には「蟻の熊野詣」といわれるほど多くの人々が全国各地から熊野に押し寄せた。

熊野に向かう道には紀伊路と伊勢路があり、紀伊路のうち田辺から先は、山中を本宮へと進む中辺路と、海岸線を迂回し那智・新宮を経由する大辺路とがあった。上皇の参詣を始め多く用いられたのは中辺路であった。
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