知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

田原本

田原本陣屋跡

旗本交代寄合平野氏の陣屋跡、初代平野権平長泰は、豊臣秀吉の近習で加藤清正らとともに賎ヶ岳七本槍として勇名を馳せ、その功績を嘉賞されて文禄4年(1595)、田原本村他6ヶ村で5000石を知行した。

写真の田原本庁舎には藩士の住居があり、これより以南に陣屋が置かれていた。

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長泰は文禄5年領内に寺内町を取立て、商業的都市を開き田原本発展の基礎を築いた。陣屋は中世土豪の館跡に、2代平野長勝が寛永12年(1635)、築造に着手し京・伏見の屋敷から移ってきた。
江戸時代、田原本は「大和の大坂」ともいわれ、中和地方の拠点的商都として栄え、田原本領の治世は初代長泰から明治4年の廃藩置県まで10代約280年間続いた。
この間、明治元年に10001石となり諸侯に列し田原本藩となった。

田原本の町並み

奈良盆地のほぼ中央、東に初瀬川、西に飛鳥川が流れる地に位置する磯城郡田原本町の町並み

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下ッ道

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田原本は弥生時代の唐古鍵遺跡から始まり飛鳥・奈良時代には下ッ道が開通しこの下ッ道が大和国条里の基準となる。
又、弥生時代から大陸文化の入口であった難波津(大阪湾)と田原本・今里浜を結ぶ大和川による水運が江戸時代に大和盆地の中心である田原本が問屋町として発展し近世田原本の礎となった。

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浄照寺
慶安四年(1651)田原本二代領主平野長勝により創建され、御門跡兼帯所として本願寺御坊に列せられ大和に七十二ヶ寺の末寺や配下を有していた。当初は円城寺といい、本末改めなどの手違いからか寛延二年(1749)寺号を改め浄照寺と称した。

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本誓寺
草創は鎌倉時代で、正和五年(1316)花園天皇の頼願所として本覚院と号し、もと八幡町にあった。賤ヶ岳七本槍で武名を馳せた平野権平長泰は五千石をもって当地を領し、教行寺退去の跡へ正保四年(1647)二代長勝が今の位置に移して菩提寺とした。

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行者堂

田原本駅

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延享三年(1746)行者堂の前身堂として行者堂の東、ムクの木の傍らに地蔵堂田原本・平野藩・寺院本末御改メ帳に「本誓寺末寺 地蔵堂 開基・開山は不詳、本堂 二間四面、本尊 地蔵菩薩、境内 東西四捨三間、南北三間 但シ無年貢地」とあり「この場所から「卍」模様の小型軒瓦があった。」
 
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明治時代 地蔵堂が廃絶の為、地蔵堂役行者倚像、前鬼像、後鬼像(伝・熊野地方より伝来)を「戸屋久」の妻が自宅離れで祀るも、逝去のため本誓寺へ預け。
大正三年頃風邪が大流行し、これは「役行者倚像 前鬼像、後鬼像」を地元新地で祀ら無くなったための「祟・タタリ」であるので、新地青年団が中心となって田原本陣屋町総堀の三間程の南堀を埋め立てて行者堂を建立し現在に至る。

所在地 奈良県 磯城郡田原本町
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