知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

町並み

田原本の町並み

奈良盆地のほぼ中央、東に初瀬川、西に飛鳥川が流れる地に位置する磯城郡田原本町の町並み

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下ッ道

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田原本は弥生時代の唐古鍵遺跡から始まり飛鳥・奈良時代には下ッ道が開通しこの下ッ道が大和国条里の基準となる。
又、弥生時代から大陸文化の入口であった難波津(大阪湾)と田原本・今里浜を結ぶ大和川による水運が江戸時代に大和盆地の中心である田原本が問屋町として発展し近世田原本の礎となった。

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浄照寺
慶安四年(1651)田原本二代領主平野長勝により創建され、御門跡兼帯所として本願寺御坊に列せられ大和に七十二ヶ寺の末寺や配下を有していた。当初は円城寺といい、本末改めなどの手違いからか寛延二年(1749)寺号を改め浄照寺と称した。

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本誓寺
草創は鎌倉時代で、正和五年(1316)花園天皇の頼願所として本覚院と号し、もと八幡町にあった。賤ヶ岳七本槍で武名を馳せた平野権平長泰は五千石をもって当地を領し、教行寺退去の跡へ正保四年(1647)二代長勝が今の位置に移して菩提寺とした。

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飛騨古川の町並み

飛騨古川の町屋の多くは、かつて奈良の都の建造物造営に活躍したと伝えられる「飛騨の匠」の技を今に受け継ぐ地元大工の伝統的工法によって建造されています。

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周囲の不調和(そうば崩し)を嫌う住民自らの意志により、古川独特の建築意匠で棟梁のシンボルでもある軒下の彫刻装飾「雲」や出窓、出格子、、土塀などが施され、統一感があり懐かしさを思い起こさせる美しい町並み景観を形成している。

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   杜氏酛摺り像 像製作 中垣克久

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   選・書 司馬遼太郎

   杜氏殿の心澄みゆき魂きはる いのちの酛は生まれ初めけり

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伊勢河崎町並み(その弐)

東国と西国の多くの人が往来するターミナル的な商業都市でもあり、戦国時代末期には既に物流と金融の中心地域でした。江戸時代には山田奉行より伊勢神宮周辺地域の米と魚の卸売り専売権を認められ、名実共に「伊勢の台所」として全国に知られた商人町となりました。

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旧出雲街道(勝山)

勝山(出雲街道)町並み
勝山藩二万三千石の城下町であり、出雲街道の宿場町として栄えた勝山は白壁や格子窓の商家や民家、なまこ壁の土蔵といった伝統的な建造物が建ち並ぶ。

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この狭い廊下は旭川が見える所もあった。
勝山藩主三浦明次は高瀬舟の舟運に力を入れ物資の集散地として勝山の繁栄を支え現在も船着き場への階段が残っている。

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早朝だったこともあり閑散としていた。

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寅さんロケ地の案内もあった。

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宇陀松山の町並み

「内牧屋」 霜永家

「紅梅酒」の造酒屋で青木月斗の句「紅梅の 名に偲ばるる 春酒かな」が残る。明治八、九年頃に霜永家の所有となる。
文化年間に二階部分を改修しているが一階部分は古く、出入り口にスリアケ戸の溝が残る。通り沿いの塀は昭和の改造で、式台玄関へ至る門が設けられていた。格式ある家だったことがわかる。

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南側にある袖塀には青海波の模様があり、北側は袖塀ではなく持送りをつけ、その下には役物瓦が見える。隅瓦に福の神を据え商売繁盛を願っている様子がうかがえる。
その他にも台格子、連格子、親子格子がこの家の魅力である。

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他の町屋

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松山町は伊勢本街道が通っており、近くに道の駅や温泉があり、春になれば有名な樹齢300年以上という又兵衛桜が咲き乱れることから、奥にある案内板を道の駅や新道沿いにも立てて観光者のために無料駐車場を作れば多くの人に松山町屋等を知って貰え経済効果もますのにとの感想を持って家路についた。
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