これは昭和12年文部省発行、小学校国語読本巻十(五年生用)に「稲むらの火」として濱口梧陵が津波の時、村人を救った事跡が登載されました。

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巻十 稲むらの火

 「これは、たゞ事でない。」
とつぶやきながら五兵衛は家から出て来た。今の地震は別に烈しいといふ程のものではなかった。
しかし、長いゆつたりとしたゆれ方とうなるやうな地鳴りとは老いた五兵衛に、今まで經験したことのない不気味なものであった。
 五兵衛は、自分の家の庭から、心配げに下の村を見下した。村では豊年を祝ふよひ祭の支度に心を取られて、さつきの地震には一向氣がつかないもののやうである。
 村から海へ移した五兵衛の目は、忽ちそこに吸い附けられてしまった。風とは反対に波が沖へ沖へと動いて、見る見る海岸には廣い砂原や黒い岩底が現れて来た。
 「大変だ。津波がやって来るに違ひない。」と五兵衛は思った。此のまゝにしておいたら、四百の命が、村もろ共一のみにやられてしまふ。もう一刻の猶予は出来ない。

 「よし。」
と叫んで家にかけ込んだ五兵衛は、大きな松明を持って飛び出して来た。そこには、取入れるばかりになってゐるたくさんの稲束が積んである。
 「もったいないが、これで村中の命が救へるのだ。」と、五兵衛は、いきなり其の稲むらの一つに火を移した。風にあふられて、火の手がぱつと上がった。一つ又一つ、五兵衛は夢中で走った。かうして、自分の田のすべての稲むらに火をうけてしまふと、松明を捨てた。まるで失神したやうに、彼はそこに突立ったまゝ、沖の方を眺めてゐた。
 日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなって来た。稲むらの火は天をこがした。山寺では、此の火を見て早鐘をつき出した。
 「火事だ。荘家さんの家だ。」と、村の若い者は、急いで山手へかけ出した。続いて、老人も、女も、子供も、若者の後を追ふやうにかけ出した。
高台から見下ろしてゐる五兵衛の目には、それが蟻の歩みのやうに、もどかしく思はれた。やつと二十人程の若者が、かけ上がつて来た。彼らはすぐ火を消しにかゝらうとする。五兵衛は大声に言った。「うつちやておけ。大変だ。村中の人に来てもらふんだ。」
 村中の人は、追々集つて来た。五兵衛は、後から後から上がって来る老幼男女を一人一人数へた。集まって来た人々は、もえてゐる稲むらと五兵衛の顔とを、代わるがわる見くらべた。
 其の時、五兵衛は力一ぱいの声で叫んだ。「見ろ。やつて来たぞ」

たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指さす方を一同は見た。遠く海の端に、細い、一筋の線が見えた。其の線は見る見る太くなった。廣くなつた。非常な速さで押寄せて来た。
 「津波だ。」と誰かが叫んだ。海水が絶壁のやうに目の前に迫つたと思ふと、山がのしかゝつて来たやうな重さと、百雷の一時に落ちたやうなとゞろきとを以て、陸にぶつかつた。人々は我を忘れて後へ飛びのいた。雲のやうに山手へ突進して来た水煙の外は、一時何物も見えなかつた。
 人々は、自分等の村の上を荒れ狂つて通る白い恐ろしい海を見た。二度三度村の上を海は進み退いた。
 高台では、しばらく何の話し声もなかった。一同は、波にゑぐり取られてあとかたもなくなつた村を、たゞあきれて見下ろしてゐた。
 稲むらの火は、風にあふられて又もえ上り夕やみに包まれたあたりを明るくした。始めて我にかへつた村人は、此の火によつて救はれたのだと気がつくと、無言のまゝ五兵衛の前にひざまづいてしまつた。