知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

竹内峠

竹内峠(竹内街道)

竹内街道は、堺の大小路から金岡、松原の岡、そして羽曳野の古市経て東へ向かい、途中で四つの高野街道と交差し、二上山南、ここ竹内峠を越えて奈良県の長尾神社に至る街道です。

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古代には歌人らも訪れ、
「大坂を 我が超え来れば 二上に もみじ葉流る しぐれ降りつつ」
「明日香川 もみじ葉流る 葛城の 山の木の葉は 今し散るらし」
中世には自治都市・堺と大和を結ぶ経済の道として、江戸時代には高野山や聖徳太子御廟、伊勢神宮、大峰山などへの参拝道として賑わいました。

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鴬の関跡
「我おもふこころ もつきず行く春を 越さでもとめよ鴬の関」   康資王母

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清水の町並み

和歌山県橋本市にある清水の町並みを見ようとクロスバイクで行ってきました。紀見峠を超えて橋本駅に着いたのが8時30分、紀の川に架かる橋本橋を渡り右折れして暫く走ると右に常夜灯が見えてくる。

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清水は紀の川南岸の三軒茶屋から学文路を経て、女人堂に至るこの道は、京都・大坂から高野山への高野街道の宿場であった。
紀ノ川南岸の賢堂三軒茶屋に渡し場を示す宝暦2年(1752)の常夜灯が2基残っている。

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清水村は元和10年(1624)には家数197軒、人数879人であった。高野街道の伝馬所として栄え、街道には参詣人の道中の安全を守るために六つの地蔵を祀っていた。

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この地は古くから高野山領で、天正19年(1591)に豊臣秀吉が興山寺の木食応其(もくじきおうご)に与えた1000石の領地であった。それは、織田信長の全国統一事業を受け継いだ秀吉が、天正13年(1585)紀州攻めを行い根来寺を焼き払い、太田城を水攻めにした。高野山は木食応其を秀吉のもとに送って、戦わずして降伏したことによる。

南海高野線紀伊清水駅

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紀伊清水駅で9時15分、ここから五條・御所・葛城と走り、竹内峠を超えました。

これは、まぼろしの鉄道と云われた五條から新宮(五新線)跡、

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本日の走行距離は85キロでした。

竹内峠

竹内峠は堺市大小路から河内平野を東に向かい松原市から羽曳野市さらに太子町を経て竹内峠を越えると奈良県、
坂を下って長尾神社に至る約30舛粒稿擦任△襦

この街道は推古天皇に遡る。
日本書紀に「浪速より京に至る大道を置く」に始まる。

今回は竹内峠から長尾神社までを歩いた。

竹内街道
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