初代 吉田奈良丸(1851~1915)浪曲家
本名は、竹谷奈良吉、後に引退して竹廼屋養徳齋という

-

嘉永4年3月、大和の国広瀬郡百済村(現北葛城郡広陵町)に出生、兄3人、妹1人の4男として生まれ、少年の頃から利発で、しかも孝心あつく読書を愛好し、能楽にも通じていました。
壮年になって、大阪に問屋支店を設け自ら経営を行っておりました。ある日、同輩と千日前で遊びチョンガレ(弔歌連)を聞き大変感動し、芸術をもって身を立てることを決心し、浪曲(浪花節)を吉田音丸に学びました。

師匠についたというものの殆ど自分で創作したものが多く、芸を極め尽くした奥深く優美な語りで、その評判は遠方まで広がり、60人余りの弟子が斑鳩町の並松の家に出入りしておりました。その門生のなかでも広橋広吉は芸名を小奈良といい、門弟中の最上でありました。その小奈良に芸名奈良丸を譲りました。

初代奈良丸は自ら竹廼屋養徳齋と称し、その余力を門生の養成と台本の改作等に務め、二代目奈良丸は、関西の雄として東の桃中軒雲右衛門とともに天下に並び称され、平易、優美な節調と美文調の歌詞とによって大衆を魅了しました。養徳齋は病を得て大正4年65歳で逝去した後、二代目奈良丸を中心とする知人や弟子によって頌徳碑を建立しました。