知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

紀伊国屋文左衛門

下津港

JR紀勢本線 下津駅

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下津港
紀伊国屋文左衛門出港の港

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当時江戸では毎年鍛冶屋の神様を祝う「ふいご祭り」があり、この祭りでは、鍛冶屋の屋根からミカンをばら撒いて地域の人に振舞う風習があったが、紀州から船が来ない事でミカンの価格は高騰していた。
紀州では安く、江戸では高い。これに目をつけたのが文左衛門は早速文左衛門は玉津島明神の神官で舅の高松河内から大金を借りてミカンを買い集め、家に残ったぼろい大船を直し、荒くれの船乗り達を説得し命懸けで嵐の太平洋に船出した。大波を越え、風雨に耐えて何度も死ぬ思いをしながら、文左衛門はついに江戸へたどり着く事が出来て大金を得たという伝説がある。

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紀伊国屋文左衛門

江戸時代前期の豪商、紀伊国屋文左衛門(紀文)は寛文九年(1669)の頃、和歌山県湯浅町別所で生まれたと推定され幼少名を文平と呼ばれた。
「紀州で商人として修行を積み江戸に出るや独創的な商才を発揮し紀州みかんの輸送や木材商として名をあげ幕府木材御用商人となり巨万の財を築いた。

その後、数多くの伝説を残して資産を整理、晩年は風流の道に入り、悠々自適の生活を送った。その商人としての独創性、勇敢な冒険心、身を引く潔さは紀州人の誇りでもある」とある。

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ミカン船伝説(ウイキペディアから)
文左衛門が20代のある年、紀州は驚くほどミカンが大豊作だった。収穫されたミカンを江戸に運ぼうとしたが、その年の江戸への航路は嵐に閉ざされていた。江戸へ運べなくなり余ったミカンは上方商人に買い叩かれ、価格は暴落した。当時江戸では毎年鍛冶屋の神様を祝う「ふいご祭り」があった。この祭りでは、鍛冶屋の屋根からミカンをばら撒いて地域の人に振舞う風習があったが、紀州から船が来ない事でミカンの価格は高騰していた。

紀州では安く、江戸では高い。これに目をつけたのが文左衛門だった。早速文左衛門は玉津島明神の神官で舅の高松河内から大金を借りてミカンを買い集め、家に残ったぼろい大船を直し、荒くれの船乗り達を説得し命懸けで嵐の太平洋に船出した。大波を越え、風雨に耐えて何度も死ぬ思いをしながら、文左衛門はついに江戸へたどり着く事が出来た。この時の様子が「沖の暗いのに白帆が見ゆる、あれは紀ノ国ミカン船」とカッポレの唄に残った。

ミカンが不足していた江戸でミカンは高く売れて、嵐を乗り越えて江戸の人たちの為に頑張ったと、江戸っ子の人気者になった。大坂で大洪水が起きて伝染病が流行っていると知った文左衛門は、江戸にある塩鮭を買えるだけ買って先に上方で「流行り病には塩鮭が一番」と噂を流し上方に戻った。噂を信じた上方の人々は我先にと塩鮭を買い求め文左衛門が運んできた塩鮭は飛ぶように売れた。紀州と江戸を往復し大金を手にした文左衛門は、その元手で江戸に材木問屋を開き、江戸城をも焼いた明暦の大火の時には木曾谷の材木を買占めて一気におよそ百万両を手にした。こうして文左衛門はしがない小商人から豪商へと出世、富と名声を掴んだ。

この伝説は文左衛門の在世中および死去間もない時期の資料には見えない。竹内誠は、この伝説は幕末に刊行された小説『黄金水大尽盃』に描かれたもので史実ではないとしている。

備考
私は、梅中軒鴬童の浪曲、「紀伊国屋文左エ門」のレコードを今も持っている。ステレオがないので今は聞くことができないが実に爽快な内容になっている。
その他、天津羽衣の「原爆の母」や京山幸枝若の「河内十人斬り」など、何度も何度も聞いた浪曲だ。
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