知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

織田信長

大坂城代々城主(壱)

初代城主 〜 織田信長
天正8年(1580)8月、石山合戦に勝利した織田信長は石山本願寺跡地に城郭を築きます、それが大坂城です。
この時の大坂城は後世と比べ規模が小さく本願寺の遺構に応急処置を加えただけの城郭に過ぎませんでした。

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織田信長が大坂城の初代城主となり、重臣の丹羽長秀・織田清澄らを常駐させます。
天正10年6月、本能寺で明智光秀に襲撃を受け、信長は最期を遂げ、それまでの2年間、大坂城の城主は織田信長でした。

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第2代城主 〜 池田恒興
天正10年6月27日、信長の家臣たちが清洲城に集まり、遺領配分を決める会議を行い、結果、池田恒興が摂津国を領することになり大坂城主に就任します。
その後、池田恒興は豊臣秀吉に仕え大垣城主となり大坂城主は1年未満でした。小牧長久手の合戦で豊臣秀吉と徳川家康が対戦した時には、秀吉方につき長久手の合戦で討ち死にします。

大坂城の歴史

大坂城の前身に石山本願寺がありました。明応五年(1496)本願寺8代法主蓮如が石山御坊という隠居寺を建てたのが始まりと云われています。山科石山本願寺本坊が徐々に大坂に移されることになり、城郭の造りを形成し石山本願寺と呼ばれるようになりました。

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11代法主顕如の時、織田信長から「石山本願寺の明け渡し」を要求され、織田信長に抵抗し戦となります。元亀元年(1570)から実に10年間に及ぶ石山合戦が起こり、天正八年(1580)に信長に降参することになります。

明け渡し直前に不審火により、三昼夜にわたり炎上し城郭であった御坊は全焼してしまいます。この石山本願寺の炎上が1回目の炎上で、この時、もっとも大きな抵抗勢力を退け勝利した織田信長は、この後、天下統一の礎を築いていくことになります。

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天正八年(1580)八月、石山合戦に勝利した織田信長は石山本願寺跡地に城郭を築きます。これが大坂城です。
しかし、この時の大坂城は後世の城とは規模が違っており、石山本願寺の遺構に応急処置を加えただけの城郭に過ぎませんでした。
信長が大坂城の初代城主となり、重臣の丹羽長秀・織田清澄らを常駐させます。天正10年(1582)6月、本能寺で最期を遂げるまでの2年間、大坂城の城主は織田信長でした。

大坂城千貫櫓

大坂城の大手口を守る重要な隅櫓である千貫櫓は西側と南側は堀に面し、大手門に向かう敵を側面から攻撃することができました。

織田信長が大坂を領していた頃も千貫櫓はありました。名称の由来に関しては、織田信長がこの地にあった石山(大坂)本願寺を攻めた際、一つの隅櫓から横矢に悩まされ、「千貫文の銭を出しても奪い取りたい櫓だ」と兵士達の間で噂されたという逸話が残っているという。

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備考 創建は徳川幕府による大坂城再建工事が開始された元和6年(1620)で、戦後の解体修理の際、墨書で 「元和六年九月十三日御柱立つ」と上棟式の日を記した部材が見つかっています。二の丸北西に現存する乾櫓と同様に大坂城最古の建造物でいずれも工事責任者は小堀遠州である。
豊臣秀吉築城の大坂城にも千貫櫓はありました。

長浜城

1573年(天正元年)、羽柴秀吉が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に当時今浜と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名した。

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湖北三郡を与えられた羽柴秀吉は、天正2年(1574)頃、小谷から当地に城下町を移し居城とした。
天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦では、ここを根拠地として大勝し、織田信長後継者としての立場を確立した。

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掛川城

現在の掛川城より東にあった掛川古城は明応6年(1497)〜文亀元年(1501)、駿河の守護大名今川氏が遠江支配の拠点として重臣朝比奈泰に築かせたといわれています。

その後、遠江における今川氏勢力拡大に伴い掛川古城では手狭となり現在の地に永正9年(1512)〜同10年(1513)頃、掛川城が築かれました。

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桶狭間の戦(1560)で今川義元が織田信長によって倒されると、永禄11年(1568)義元の子氏真は武田氏に駿河をを追われ掛川城に立て籠もりました。
翌年、徳川家康は掛川城を攻め長期にわたる攻防の末、和睦により開城させました。

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天正18年(1590)全国平定を達成した豊臣秀吉は、徳川家康を関東へ移すと家康旧領地には秀吉配下の大名を配置し、掛川城には山内一豊が入りました。

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一豊は多くの戦乱により傷んだ城の改築や城下の整備を行うとともに、この時初めて天守閣を造りました。

霧噴き井戸
永禄12年(1569)徳川家康は今川氏真の立て籠もる掛川城を攻めた折りに井戸から立ち込めた霧が城をつつみ家康軍の攻撃から城を守ったという伝説があります。

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山内対馬守一豊  五万石  入城年 天正18年(1590) 在城年数10年 関ヶ原役の恩賞により
            土佐高知へ転封
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