知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

自転車

橋本へポタリング

天気が良いのでNさんと和歌山県の橋本までポタリング、三日市を過ぎたあたり、国道を避けて遊歩道を走る。


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紀見峠

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六里道標石

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紀見峠は大阪と和歌山の県境、その昔は番所があったのだ。

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紀見峠にある集落、その昔は宿が何軒かあったようだ。

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紀見峠駅への急坂(高野街道)

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杉村公園にある吊り橋で遅い昼食とする。橋本から紀州街道を南下する予定だったので折りたたみ自転車で輪行袋を用意してきたが公園を下ると15時頃になったので引き返すことにした。

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備考
高野山へ向かういくつかの街道で、最も古く、多く用いられたのが東高野街道である。この街道は京都から八幡、枚方を経て、生駒山西麓を南下し、河内長野から紀見峠を超えて高野山に至るコースで、その成立は平安時代後期まで遡ると云われている。

ポタリング

国道を避けて脇道を南進、ロードバイクで和歌山方面に向かう、旧高野街道が走る河内長野から三日市を通り天見へ、往復30キロのポタリングでした。

10キロ地点

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三日市を過ぎたところから天見まで、ほとんど人は通らない遊歩道、国道はカーブが多く自転車は危ない。
千早口駅

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サイクリング

昨日は、和歌山県の紀ノ川沿いにある、道の駅 「紀の川萬葉の里」を6時30分に出発して和歌山市に向かう。
和歌山市内で和歌山ラーメンを食べる予定だったが時間は9時、コースを南から東にとり高野山方面に向かう。

道は徐々に上り坂となり、進むほどに坂は急坂となってくる。何度も休憩をしながら下の写真のバス停で写真撮る。

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このバス停からも急坂が続く、次に休憩した時にコンデジが無いことに気付く。Nさんは「戻ろう こんな田舎だから必ずある」と、「5キロ以上 いや10キロあるかも知れない」私一人なら諦めていただろう。

Nさんの自転車は同じロードバイクだが競技用のバイク、そして走り込んだ健脚だ。追いつけない。途中でNさんがカメラを持って出会う。このカメラには前日に撮った滝畑の写真も入っている。Nさん ありがとう。
戻った距離、片道12キロ、往復24キロだった。 

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この日の走行は休憩を含めて11時間30分、走行距離107キロであった。前夜に温泉に入るから着替えを持ってくるようにと連絡をもらっていたが、私にはもう余力が残っていない、帰宅した私は風呂に入るなり眠ってしまたのでした。

首大佛

和歌山市での写真撮影を終え駅に向かっていると雨が降ってきたので無量光寺の山門で雨宿りをさせてもらいました。

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山門から中を覗くと、
「首大佛様の縁起」と説明書きがあるが長いので割愛します。

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そしてこんな書き物が、

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玉手橋

富田林市内を流れる石川河川敷の自転車専用道を下流に向かってポタリング、

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石川は大阪と奈良・和歌山の境をなす金剛・葛城山系に源を発し、天見川、佐備川、千早川、梅川、飛鳥川を集めながら大和川と合流する。
この辺りの石川の流れを、昔は博多川と云っていた。古くは河内国安宿郡尾張郷と称した地である。

玉手橋

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石川に臨む玉手山丘陵は、古代から重要視された地点で、古墳時代前期(4世紀〜5世紀初頭)の古墳が多く築造されたが、この古墳群は国土統一の進められた五世紀初頭における国家成立に看過することのできない地位をもつものである。

玉手橋から上流を望む

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時代が下がって元和元年(1615)、大坂夏の陣で豊臣方、徳川軍がこの玉手山丘陵を最重視し、制圧をかけて激突したことは有名である。勝負山(小松山)の地名を今に残している。

勝海舟寓居地

「文久3年軍艦奉行勝安房守紀州藩海岸防衛工事監督のため幕府より和歌山に派遣せられし時此処に寓居す時 に門下坂本龍馬も亦来りて事に従ふ」

文久3年(1863)、軍艦奉行であった勝海舟は幕府より紀州の砲台検分を命じられ、(当時、日本は長年の鎖国から開国へと体制が変わり、外国船が来航するなか)海に面した紀州は砲台(和歌浦・加太)を築き防衛を強化する必要がありました。勝海舟は数日間、両替商「清水平右衛門」邸に仮住まいをして、その任に当たりました。
坂本竜馬も勝海舟を訪ねこの地に来たとされています。


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旧西本組本社ビル

和歌山市小野町にある旧西本組本社ビルは、戦災で市街地の大半を焼失した和歌山市内において、現存する数少ない近代建築物である。一般には西本ビルと呼ばれ国の登録有形文化財に登録されている。

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ネオ・ルネサンス様式を採用し鉄筋コンクリート造三階建てで、現代の建物と比較すると階高が高く作られているので天井が高く、正面は威厳のある玄関で上部には大きなペディメント(破風)が載っていて、それをイオニア式オーダー(柱)が支えている。
この石柱は継ぎ目がない一本の石材で造られ外部は一階が西洋建築における基壇として御影石張りとし、二階から上は薄茶色のタイル張りで当時のモダンな雰囲気が今も漂う。窓は縦長の上げ下げ窓で当時の木製サッシもほぼ現存している。

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小深の里

河内長野小深の里までサイクリング、

河内長野市を流れる石川に架かる諸越橋を渡ると小深まで約9.7キロの上り坂となる。

観心寺

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ここはなだらかな道、小深までもう少し

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小深の里

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帰りは下り坂、乗っているだけで50キロ位で走れる。帰り道、観心寺近くで交通事故、軽トラとバイクの接触事故、パトカーと救急車を横目に見ながら気を引き締めて帰宅する。

岡山の時鐘堂

岡山の時鐘堂は、江戸時代正徳二年(1712)五代藩主徳川吉宗のとき紀州藩によって設置された。
鐘楼は約6メートル四方の二階建てで、二階の大梁に梵鐘が吊り下げられている。この鐘は藩士の登城や城下に時刻を知らせるもので、二人の番人によって管理され刻限ごとにつき鳴らされた。

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当時は、本町付近にも時鐘屋敷と呼ばれた鐘つき施設があり、ここでも時の鐘がつき鳴らされたと伝えられ、時鐘屋敷は明治以降も時を知らせ続けていたが大正10年の時報廃止と共にその役目をおえた。

時鐘堂の梵鐘は、元和元年(1615)の大坂夏の陣の際に豊臣方が使用した青銅製の大筒を徳川方が捕獲し、紀州藩が保管していたものを、のちに粉河の鋳物師に命じて梵鐘に改鋳させたと伝えられる。

徳川吉宗生誕の地

徳川吉宗は貞享元年(1684)十月、城下吹上邸で生まれたとされている。

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父は紀州徳川家二代藩主の徳川光貞で母はその側室でお由利である。
元禄十年(1697)四月、葛野藩(現福井県朝日町)三万石の大名に取り立てられ、宝永二年(1705)二人の兄の相次ぐ死によって五代藩主となる。

その後、享保元年(1716)八代将軍に襲職し、享保の改革を進める。
幕府支配体制の強化を図り、「徳川中興の英主」といわれた。

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