竹内街道
推古天皇21年(613)に、難波と飛鳥京の間におかれた街道は、飛鳥時代にわが国最初の官道として栄え、大陸からの文物を大和飛鳥にもたらしました。
中・近世には、伊勢、長谷参詣が隆盛し、茶屋、旅籠が峠を行く人々の旅情を慰めました。竹内街道の風景には多くの文化人達が筆をとり、貞享5年に松尾芭蕉が河内に向かい、幕末嘉永6年に吉田松陰が竹内峠を経て儒者を訪ね、文久3年には天誅組の中山忠光等7名が志果たせぬままここに逃走しています。

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この句碑は、「野ざらし紀行」に「綿弓や琵琶に慰む竹の奥」とあり、この時の好句を記念するため、芭蕉の歿後115年を経た、文化6年10月に建てられたものです。

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この地は、芭蕉の門人千里の郷里で、芭蕉は貞享元年秋千里の案内でこの地に来り、数日間竹の内興善庵に滞在している。さらに元禄元年春再びこの地を訪れ、孝女伊麻に会って、その親を思う美しい心にこの上もなく感激し、「よろづのたつときも、伊麻を見るまでのことにこそあなれ」と友人に手紙を送っている。

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俳聖芭蕉は貞享元年秋、元禄元年春その他数回当地を訪れたとおもわれ、数々の句文を残しています。

「里人は 稲に歌よむ 都かな」 「楽しさや 青田に涼む 水の音」 「世に匂ひ 梅花一枝の みそさざい」等、