松山城は松山平野の中央に位置する勝山を中心に築かれた平城で、山頂に本丸が南西の山麓に二之丸や堀と土塁に囲まれた三之丸が配されています。

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松山城の築城は、関ヶ原の戦いでの活躍により、この地を与えられた加藤嘉明によって始められ築城にあわせて勝山の南を流れていた湯山川を付け替え、三之丸と城との周囲に侍町をその外側に町人地を置き、さらに勝山の北側にある御幸寺山の山麓に城を防備するために寺町を置きました。

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加藤嘉明は正木城(伊予郡松前町)から慶長8年10月に新城下に移りました。この頃から松山と呼ばれるようになったと伝えられています。
城の完成は寛永4年に嘉明が会津へ転封された後、蒲生忠知によると伝えられ、忠知の死後、跡継ぎがいなかったため、寛永12年、松平定行が松山藩に入り、以後、明治維新を迎えるまで松平家の居城となりました。