知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

蒲生氏郷

若草清水

日野村井横町にある地蔵堂の下に清水あり、「若草清水」と呼ばれている。千利休の七哲の一人だった日野城主蒲生氏郷が茶の湯にこの水を使った由緒ある清水と云われている。

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慶応二年((1866)、河原田町の谷孝道が若草清水を詠んだ歌碑を建てている。
       たちよれば やがて心の底すみて
                 むすぶにあかね 若草の水

蒲生氏郷

近江蒲生郡日野に六角氏の重臣蒲生賢秀の嫡男として生まれ幼名は鶴千代と名付けられました。

彼は弘治2年(1556)、名門蒲生家の跡取りとして誕生し13歳の時、蒲生家の人質として織田信長のもとに送られ14歳の氏郷は信長の部下として伊勢大河内城の戦に初参戦し大きな手柄を立てた氏郷に対し、信長は身柄開放と娘の冬姫との婚姻で報いました。

日野城(中野城)跡

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日野に戻った後もさまざまな戦で自ら先頭に立って闘う強者ぶりを見せる一方、氏郷は信長のもとで学んだ城下町づくりの手法を取り入れ、領内の行政、経済の改革に着手、日野は大きな繁栄の時代を迎えました。
そんな彼のもとに、信長絶命の悲報が届いたのは天正10年(1582)のこと、氏郷は信長一族を守るため、日野城に立てこもりました。しかし光秀の反乱は天王山の合戦であっけなく終結し秀吉の傘下に入ることを決めた氏郷は、反乱を企てた北畠氏と伊勢で激突、次々と敵城を攻略し伊勢を平定しました。この功績により、氏郷は伊勢松が島城主として転封。さらに会津に移り、92万石の大名となりました。

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蒲生氏郷は多くの逸話が残されている。
※ 戦国武将としては珍しく側室を置かなかった。だが二人の実子が早世し、蒲生家の血が絶えたため、このことが蒲生家断絶の遠因となった。
※ 家臣を大切にしたとされ、諸大名からの人望も厚かったとされる。
※ 茶湯に深い理解があり、南化玄興の計らいで谷宗養・里村紹巴、その後、千利休に師事し、利休七
哲の一人に数えられており、鶴ヶ城にある茶室「麟閣」は、利休切腹後に会津に蟄居した利休の子・千少庵からもらったものとされている。又、鶴ヶ城の庭でよく茶会を開いていたとされ、その茶会では家臣のみならず身分に関係なく農民や商人達も招いて茶を振る舞ったとされている。
※ 六角氏が滅亡した後、父の賢秀が鶴千代(氏郷)を連れて信長のもとへ臣従の挨拶に行った際に鶴
千代を見た信長は、「蒲生が子息目付常ならず、只者にては有るべからず。我婿にせん」と言い、将来自分の娘の冬姫を娶らせる約束をしたという
※ 氏郷は財産を惜しまず家臣に与えた。彼の言葉によると「家臣にとって俸禄と情は車の両輪のような
もの、両方を上手く転がしていかないと家臣は付いてこない。禄を多くしても情をかけなかれば家臣は主家を離れる。 情ばかりかけても給与を配慮しなければこれも同じことであり、どちらが欠 けても家臣の心は主から離れるものだ」という。
※ 手柄を立てた家臣がおり、その家臣の手柄が俸禄だけで優遇できなくなると、氏郷は休日にその家臣を自らの屋敷に呼んでご馳走と風呂でもてなした。しかも氏郷自らが煤で真っ黒になりながら薪をくべるほどの律儀さであり、この時、風呂に入っている家臣に、「命がけの働きに褒美を出してやれなくてすまない、こんなことしかできないが許してくれ」と言ったという。家臣達は氏郷の部下想いに改めて涙を流したという。又、秀吉の御伽衆になった元主君の六角義賢にも分け隔てなくこの風呂に入れたという。この風呂は「蒲生風呂」といわれた。

松坂城跡

松坂城は蒲生氏郷が天正十六年(1588)四五百森に築城した平山城である。

蒲生氏郷が陸奥黒川へ移封後、天正19年に服部一忠、文禄4年に古田重勝と城主が変わり、元和五年(1619)に徳川頼宣が和歌山藩主となると同時に和歌山藩領となり、以降、明治になるまで勢洲領(松坂・田丸・白子等)十八万石を統轄する城代が置かれてきた。

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徳川陣屋跡

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中御門跡

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太鼓櫓跡

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金ノ間櫓跡

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本丸跡
中央の金網は何だろうと覗いてみたら井戸だった。

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北に大手、南を搦手とし、本丸・二ノ丸・三の丸・隠居丸・きたい丸からなり、本丸・二ノ丸等には高い石垣を築き、外郭に土塁や堀をめぐらせていた。

三層の天守と金ノ間・月見・太鼓等の櫓がそびえ立っていたが正保元年(1644)の台風で天守は倒壊したと伝えられる。
二ノ丸には寛政六年(1794)に着工された御殿(徳川陣屋)があった。

茶室「麟閣」


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およそ400年前、天正十九年我が国茶道の大成者である千利休は豊臣秀吉の怒りに触れ死を命じられた折、
秀吉の怒りが千家一族及ぶのを恐れた会津領主 蒲生氏郷は利休の子、小庵を会津に匿い千家が再興できるように願い出た。

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その結果、秀吉の怒りが解け千家再興が許された。
この蒲生氏郷の恩義に報いるべく小庵が建てた茶室が「麟閣」と伝えられる。

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千家再興が許されたのち、小庵は京都に帰って千家を再興し、宗左、宗室、宗守の三人の孫によって、表、裏、武者小路の三千家が興され茶道の基礎が築かれた。

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