慶長13年(1608)8月、徳川家康は、伊予の国(現在の愛媛県)宇和島城主であった藤堂高虎に、伊賀の国10万石・伊勢の内10万石、伊予の内2万石、合わせて22万石を与え国替えさせました。
高虎が家康の信任が厚く、築城の名手でもあり、大坂・豊臣方との決戦に備えるための築城でした。筒井定次の城が大坂を守る形をとっていたのに対し、高虎は、大坂に対峙するための城として築きました。慶長16年(1611)正月、本丸を西に拡張し、高さ約30メートルの高石垣をめぐらして南を大手としました。
五層の天守閣は、建設中の慶長17年(1612)9月2日、当地を襲った大暴風で倒壊しましたが、外郭には、10棟の櫓(二重櫓二棟、一重櫓八棟)と長さ21間(約40m)という巨大な渡櫓(多聞)をのせた東西の両大手門や御殿などが建設されました。
慶長19年(1614)の大坂冬の陣、その翌年の夏の陣で豊臣方が敗れました。その後、幕府は城普請を禁じたため、伊賀上野城では天守閣が再建されないまま伊賀国の城として認められ、城代家老が藩政をあずかりました。
藤堂高虎(1556〜1630)
近江国犬上郡で生まれ、浅井長政らに仕えたのち、織田信澄、羽柴秀長に仕え、小牧・長久手の戦いなどで戦功をあげ紀伊粉河で2万石の大名となりました。豊臣秀吉が宇和島7万石の領主としましたが秀吉の没後、徳川家康に重用され今治20万石の大名となりました。
慶長13年(1608)に伊賀、伊勢の安濃津に移封となり伊予の2万石と併せて22万石の領主となりました。
藤堂氏はその後、32万3954石にまで加増され大藩となりました。
高虎が家康の信任が厚く、築城の名手でもあり、大坂・豊臣方との決戦に備えるための築城でした。筒井定次の城が大坂を守る形をとっていたのに対し、高虎は、大坂に対峙するための城として築きました。慶長16年(1611)正月、本丸を西に拡張し、高さ約30メートルの高石垣をめぐらして南を大手としました。
五層の天守閣は、建設中の慶長17年(1612)9月2日、当地を襲った大暴風で倒壊しましたが、外郭には、10棟の櫓(二重櫓二棟、一重櫓八棟)と長さ21間(約40m)という巨大な渡櫓(多聞)をのせた東西の両大手門や御殿などが建設されました。
慶長19年(1614)の大坂冬の陣、その翌年の夏の陣で豊臣方が敗れました。その後、幕府は城普請を禁じたため、伊賀上野城では天守閣が再建されないまま伊賀国の城として認められ、城代家老が藩政をあずかりました。
藤堂高虎(1556〜1630)
近江国犬上郡で生まれ、浅井長政らに仕えたのち、織田信澄、羽柴秀長に仕え、小牧・長久手の戦いなどで戦功をあげ紀伊粉河で2万石の大名となりました。豊臣秀吉が宇和島7万石の領主としましたが秀吉の没後、徳川家康に重用され今治20万石の大名となりました。
慶長13年(1608)に伊賀、伊勢の安濃津に移封となり伊予の2万石と併せて22万石の領主となりました。
藤堂氏はその後、32万3954石にまで加増され大藩となりました。