岡崎から藤川へ

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東海道五十三次、37番目の宿場として設けられた藤川宿の町並みは九丁二十間(約1キロ)で、天保十四年(1843)の宿内人口は、1213人、(302軒)で、本陣は森川家1軒、脇本陣は橘屋大西家1軒で、ともに中町にありました。旅籠屋は、大7軒、中16軒、小13軒でした。

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ここから赤坂宿までは二里九丁、岡崎宿へは一里二十五丁でした。
藤川は、幕府直轄の宿場で代官によって支配されていました。また、藤川宿は、東の新居宿から西の宮宿(熱田)まで十一宿が組合で、赤坂宿とともに「組合宿」の取締まりの宿場でした。

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さらに藤川は、塩の道「吉良街道」に通じる交通の要所であり、また、二川・赤坂・御油の四宿連名で荷車の使用を願い出て、街道中で初めて幕府の許可をもらっていました。