詩仙堂と呼ばれているのは、正しくは凹凸窠(おうとつか)であり、詩仙堂はその一室である。
凹凸窠とは、でこぼこした土地に建てた住居という意である。詩仙堂の名の由来は、中国の漢普唐宋の詩歌三十六人の肖像を狩野探幽に描かせ、図上にそれら各詩人の詩を石川丈山自ら書いて四方の壁に掲げた。
「詩仙の間」を中心としているところから呼ばれる。

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石川丈山がこの堂に掲げるべき三十六詩人とその詩を選定したのは、寛永18年59歳の時で、これは、我が国の三十六歌仙にならったもので、その選定には林羅山の意見も求め、左右十八人、それぞれの組合わせに意味をもたせた。
蘇武と陶潜、韓愈と柳宗元等七対は羅山の改訂したところである。

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建造物は後に寛政年間、多少変更を見たが、天災地変の難を免れ、庭園と共に往時をそのままに偲ぶことができる。

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新緑も良いが秋の紅葉も見応えがありそうだ。

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石川丈山は、天正11年(1583)三河国(愛知県安城市)に生まれました。石川家は父祖代々徳川譜代に臣であり、丈山も16歳で徳川家康公に仕え近侍となった。松平正綱、本多忠勝等はその親戚であった。
33歳の時、大坂夏の陣では勇躍先登の功名を立てたが、この役を最後として徳川家を離れ、京都にて文人として藤原惺窩に朱子学を学んだが、老母に孝養を尽くすため、広島の浅野侯に十数年仕え、その後母を亡くした丈山は54歳の時、京に帰り相国寺畔に居住し、寛永18年(1641)59歳で詩仙堂を造営し、没する迄の三十余年を清貧の中に、聖賢の教えを自分の務めとし、寝食を忘れてこれを楽しんだ。
丈山は隷書、漢詩の大家であり、また我が国における煎茶(文人茶)の開祖である。