知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

豊臣秀吉

御茶屋御殿

京・大坂を結ぶ交通の大動脈、淀川と京街道を見下ろす地に豊臣秀吉が御茶屋御殿を建てたのは文禄四年(1595)のことでした。三矢村に残る記録から秀吉が「御茶殿」を建てたことが確認できるようです。

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伝承では、秀吉の家臣である枚方城主本多内膳正政康の娘「乙御前」をここに住まわせたとも云われています。
京都伏見と大阪に拠点を置いた秀吉は、この間をしばしば行き来していました。中間にあたる枚方にも立ち寄り、文禄五年の淀川堤防修築に際しては対岸の大塚から枚方の工事の様子を上機嫌で眺めたとの話が残っていると伝えられる。

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江戸時代になると、御茶屋御殿は幕府公用の施設となりました。元和9年(1623)には二代将軍徳川秀忠が、寛永3年(1626)には三代将軍家光が逗留したと記録に残されています。家光来訪の際には「大茶殿」の脇に桁行5間、梁行3間の御殿が新築されています。

三宝院(醍醐寺)

永久三年(1115)、醍醐寺第14世座主により創建、現在の三宝院は慶長三年(1598)豊臣秀吉により再建されたもので、唐門や表書院は国宝に、その他の建造物は大半が国の重要文化財に指定されている。

 唐門

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桃山時代を代表する秀吉設計の庭園は池泉回遊式と枯山水が折衷されている。

 玄関(大玄関と小玄関がある)

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豊臣秀吉が開いた「醍醐の花見」に倣って、毎年四月第二日曜日には「豊太閤花見行列」がおこなわれる。

備考 院内及び庭園は撮影禁止となっていて監視員がいる。

醍醐寺

京阪電車中書島駅から宇治線で六地蔵駅で下車して、駅前からバスで約15分醍醐寺前で降ります。

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真言宗醍醐派の総本山で、山上の上醍醐と山下の下醍醐から成る壮大な寺で天暦五年(951)に完成した京都府域最古の五重塔をはじめ、四万点に上がる多くの国宝や文化財を有している。

 総門

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応仁の乱や文明の乱により、五重塔を残してすべて焼失したが、慶長三年(1598)に豊臣秀吉が北政所らを醍醐の花見に誘ったことをきっかけに、秀吉の厚い帰依を受けて復興された。
本堂の金堂(国宝)は慶長四年(1599)に紀州湯浅の満願寺から移築したものといわれ、三宝院庭園(特別史跡及び特別名勝)は、華麗で豪華な桃山時代の庭園で秀吉の権勢をしのばせている。

 西大門

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嵐山大悲閣千光寺

大悲閣は禅宗寺院で、保津川の右岸を渡月橋から遡って嵐山温泉から九十九折りの石段を登りつめた山の中腹にありました。

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慶長19年(1614)角倉了以によって、二尊院の僧、道空了椿を中興開山に請じて建立され、了以は我が国の民間貿易の創始者として、豊臣秀吉に続いて徳川家康からも朱印状を得て南方諸国と交易し、海外文化の輸入に功績を挙げた人物で、国内においては、保津川、富士川、天竜川、高瀬川等の大小河川を開削し舟運の便益に貢献しました。

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遠くは、比叡山、大文字山をはじめ東山三十六峰、京都市街を一望することができます。

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       花の山 二町のぼれば 大悲閣
                             松尾芭蕉

  大悲閣

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太田左近

紀伊続風土記、根来焼討太田責細記によると、
太田左近は、天正13年(1585)全国制覇をもくろむ豊臣秀吉に対し太田城に立てこもり紀州の土豪を指揮して抵抗した。

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一ヶ月に及ぶ水攻めを受けた後、自らの命を賭して城中の子女の助命を願い開城した。中世紀州の士豪の気風を集約した人物といえる。

大坂城千貫櫓

大坂城の大手口を守る重要な隅櫓である千貫櫓は西側と南側は堀に面し、大手門に向かう敵を側面から攻撃することができました。

織田信長が大坂を領していた頃も千貫櫓はありました。名称の由来に関しては、織田信長がこの地にあった石山(大坂)本願寺を攻めた際、一つの隅櫓から横矢に悩まされ、「千貫文の銭を出しても奪い取りたい櫓だ」と兵士達の間で噂されたという逸話が残っているという。

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備考 創建は徳川幕府による大坂城再建工事が開始された元和6年(1620)で、戦後の解体修理の際、墨書で 「元和六年九月十三日御柱立つ」と上棟式の日を記した部材が見つかっています。二の丸北西に現存する乾櫓と同様に大坂城最古の建造物でいずれも工事責任者は小堀遠州である。
豊臣秀吉築城の大坂城にも千貫櫓はありました。

天下茶屋

天下茶屋駅前商店街

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天下茶屋の歴史
この地は、古代には「天神の森」と呼ばれる鬱蒼とした森の茂った鄙びた土地だった。そこに湧く水の良さに着目して茶室を建て、森を切り開いて道をつけたのが、千利休の師にあたる武野紹鷗だった。以来この地は「紹鷗の森」とも呼ばれるようになった。

天正年間 (1573–92) には楠木正行の十世孫であるという初代芽木小兵衛光立がこの森の西側を開き、ここに茶屋を出した。そして三代目芽木小兵衛昌立のとき、住吉神社を参拝した関白・豊臣秀吉がこの地に立寄り、この芽木家の茶店から清泉を汲んでお伴の千利休に茶を点てさせたところ、味の良さに感激。そこでこの泉に「恵の水」の銘を、芽木家に玄米年三十俵の朱印を与えた。そこから関白殿下の「殿下茶屋」、天下人の「天下茶屋」などの名が知られるようになったという。   Wikipedia から 

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掛川城

現在の掛川城より東にあった掛川古城は明応6年(1497)〜文亀元年(1501)、駿河の守護大名今川氏が遠江支配の拠点として重臣朝比奈泰に築かせたといわれています。

その後、遠江における今川氏勢力拡大に伴い掛川古城では手狭となり現在の地に永正9年(1512)〜同10年(1513)頃、掛川城が築かれました。

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桶狭間の戦(1560)で今川義元が織田信長によって倒されると、永禄11年(1568)義元の子氏真は武田氏に駿河をを追われ掛川城に立て籠もりました。
翌年、徳川家康は掛川城を攻め長期にわたる攻防の末、和睦により開城させました。

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天正18年(1590)全国平定を達成した豊臣秀吉は、徳川家康を関東へ移すと家康旧領地には秀吉配下の大名を配置し、掛川城には山内一豊が入りました。

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一豊は多くの戦乱により傷んだ城の改築や城下の整備を行うとともに、この時初めて天守閣を造りました。

霧噴き井戸
永禄12年(1569)徳川家康は今川氏真の立て籠もる掛川城を攻めた折りに井戸から立ち込めた霧が城をつつみ家康軍の攻撃から城を守ったという伝説があります。

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山内対馬守一豊  五万石  入城年 天正18年(1590) 在城年数10年 関ヶ原役の恩賞により
            土佐高知へ転封
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