知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

豊臣秀頼

大坂城代々城主(参)

徳川家康の台頭
慶長4年(1599)3月、豊臣秀吉の居城であった伏見城を自分の居城として、また、同年9月9日、秀頼に対し重陽の節句のお祝いのため伏見から大坂城に入城します。

この頃、北の政所は西の丸に住んでいましたが、家康の来坂直後、西の丸を家康に明け渡し京都の高台寺に移り住んでしまいます。家康はお祝いが済んでも伏見に帰ろうとせず、西の丸に居座ります。

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慶長5年2月、徳川家康は西の丸に天守閣の築造工事を開始します。姫路城の天守閣は大天守を中心に小天守がある造りになっていますが、この時の大坂城は本丸と西の丸からは離れた場所に大天守が2つあることになります。

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徳川家康と石田三成の対立
西の丸に天守閣を建てた家康に石田三成などが対抗します。慶長5年(1600)、関ヶ原で家康の東軍と三成の西軍がぶつかり、家康が勝利します。
慶長8年、征夷大将軍に任じられた徳川家康は江戸に幕府をひらきます。

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第5代城主 松平忠明
幕府は大坂夏の陣で灰になった焼け跡を整理し、伊勢亀山5万石の領主だった松平忠明を大坂城主に起用します。忠明の母は家康の長女亀姫で家康から見ると忠明は孫にあたります。

備考 大阪堺市の南宗寺境内に徳川家康の墓があります。云い伝えによると、大坂夏の陣の折、豊臣
    方の武将(後藤又兵衛の説あり)が家康本陣近くに攻め入り、慌てて籠で逃げる家康を槍で刺し、
    虫の息で堺に辿り着いた家康はそこで息絶え南宗寺に葬られたと、

    それを裏付けるものとして、元和9年(1623)7月に第2代将軍徳川秀忠、第3代将軍徳川家光が
    8月に南宗寺を訪れているという。
    明治期に旧幕臣山岡鉄舟も南宗寺を訪れ家康の墓の横に「無銘ノ塔 家康諾ス」と刻んだ石碑を
    残している。
    決定的な確証はないが可能性はあるのではという説も残っている。

大坂城代々城主(弐)

第3代城主 羽柴秀吉
秀吉は柴田勝家を破り、名実ともに信長の後継者となります。天正11年(1583)、池田恒興を大垣に移封させ、秀吉自らが大坂城主となります。

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秀吉は大坂を政治の中心地とすることに決め、大坂城を安土城のような大規模な巨城にしようとし、天正11年9月1日から工事を開始します。
天正13年に一期工事が終了します。外郭工事が終了するのは、秀吉が病没する慶長3年(1598)でした。約15年に及ぶ工事は、想像を絶する力の入れようでした。

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豊臣期の大坂城は、本丸(五層の天守閣)、山里曲輪(茶室がいくつもあり千利休が活躍した場所)、二の丸、三の丸、現在の大阪城よりも数倍広大なものでした。
下水道は現在でも使用され、建物と建物が背中合わせになっているところに溝が掘られたので「背割下水」あるいは「太閤下水」と呼ばれています。

本丸があった場所は、「豊臣時代大坂城本丸図」によると現在の天守閣がある東北約100メートルの処にありました。

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第4代城主 豊臣秀頼
秀吉の死後、子の秀頼が後を継ぎ第4代大坂城主に就きます。秀頼は年が若く、秀吉のような影響力がないため、五大老のひとりである徳川家康が次第に勢力を拡大させます。同じく五大老のひとりであった前田利家が亡くなり、ますます徳川家康の力が強大化していきます。
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