知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

貝塚寺内町

貝塚寺内町を歩く

妙泉寺

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レンガ道

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寺田屋住宅(登録有形文化財)
寺田財閥の一族で鋳造業を営んでいました。大丸百貨店の設計で昭和11年に建築され、主屋は外観を洋風にした木造住宅で、隣接して茶室、内倉、外蔵、納屋があります。昭和28年には高島屋の設計で鉄筋コンクリート造りの新宅が建てられました。

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[妙泉寺]
貝塚市内唯一の日蓮宗寺院で、寺に残る縁起によると永正15年(1518)堺の成就寺の僧日詮が岸和田城下に創建したという。その後、王寺村、海塚村へ移転し慶長3年(1598)に日喜の代に当地に移転した。
現在の本堂は文化3年(1806)の再建である。門前にある「南無妙法連華経」の文字を刻んだ題目塔は安永10年(1781)建立で髭題目と呼ばれる日蓮宗独特の書体で刻まれている。

ぶらり貝塚寺内町(近木)

寺内町当時のまちわりとともに、古くは江戸時代後期から明治、大正、昭和の伝統的様式の町屋が数多く残されています。

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夏空に太鼓とどろく近木町や汗しとどなるよき男伊達  田辺聖子

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卜半役所跡(貝塚寺内町)

利斎家住宅(登録有形文化財)
織田信長兵乱の時に貝塚に往来したと伝わり、江戸時代には薬種問屋を営む有力町人で、建築時期は17世紀まで遡る可能性があり、離れの洋館は大正13年頃の建築といわれています。

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現北小学校の敷地は、もとは願泉寺の境内にあたり、明治維新までは卜半役所と呼ばれる政庁が置かれていました。
一向宗の自治都市としての寺内町の時代には、この寺は信仰と政治両面にわたる町の中心でした。江戸時代に入り幕藩体制の下でも、寺のもつ二面性は保持され、貝塚寺内町の地は住職の卜半家の領地とされました。
政庁の表門は旧紀州街道に面していました。

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旧紀州街道(現府道堺阪南線)

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寺内町とは、戦国時代に畿内を中心に、寺院を中核として計画的につくられた宗教自治都市です。
貝塚寺内町は、貝塚御坊願泉寺を中心に発達した寺内町です。古くは麻生郷海塚村に属し、もとの集落は紀州街道沿いの低地にあったと推定され、室町時代末期に寺内町として建設されました。
織田信長の時代には、和泉国の一揆衆が結集する場となり、天正5年(1577)に信長軍の攻撃を受けました。
豊臣秀吉の時代には、天正11年(1583)から2年余りは浄土真宗の本山である本願寺が置かれ、その寺内町として発展をとげました。
江戸時代には、願泉寺住職卜半家を領主(地頭)とする諸役免許の地「貝塚卜半寺内」として、様々な商工業が発展しました。

願泉寺(貝塚寺内町)

並河家は卜半家の家来で代々その要職を務めた家柄である。
当家住宅は願泉寺の門前通りの「御坊前通り」に西面し、外観は町家の形式が
あるが、内部は式台玄関を配する武家の住宅となっている。
主屋は天保3年(1832)の建立といわれ、土蔵は江戸時代後期である。

並河家住宅(登録有形文化財)

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願泉寺(貝塚御坊)
天文14年(1545)、無住であった草庵に紀州根来寺から卜半斎了珍を迎え、一向宗の町づくりがはじめられた。石山本願寺から寺内町にとり立てられた後、天正5年(1577)には、その支城として織田信長と戦い、町は焦土と化した。
その後、寺も町も再興され、天正11年(1583)から2年の間、紀州鷺ノ森より顕如上人を迎えて本願寺御堂となった。

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江戸時代には町は寺領とされ、住職の卜半家の支配が続いた。

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貝塚寺内町は、南北約800メートル、東西約550メートルの広さを持つ環濠城塞都市であった。
西は大阪湾、北は北境川、南は清水川を濠と見立て、これらをつなぐ形で濠をめぐらしていた。慶安元年(1648)の町絵図によれば、濠の内側には土塁が築かれ、6ヶ所の町の出入口には番所が置かれていました。

環濠跡(貝塚寺内町)

 貝塚寺内町の起こりは、応仁年間に蓮如上人が逗留したと伝える庵寺にはじまります。
 天文年間に、この地に集まる一向宗門徒が相談して、京都の落人である右京坊了珍を紀州根来寺から迎え、無住であった草庵を再興したといわれています。

浄土真宗寺内町として戦国期に成立し信長と本願寺との石山戦争により灰燼に帰した後、真宗寺住職家の支配の下、在郷町として江戸期に繁栄した。泉南地域で最も古い歴史をもち、江戸期の町屋が数多く現存する。

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感田神社

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感田神社境内に残る環濠跡は、かつて寺内町にめぐらされた濠の面影を残す唯一の遺構とされている。

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「信長との石山戦争が始まると、貝塚寺内町は石山寺本願寺に呼応し、雑賀衆と協力してその支城としての役割を果たすとともに、毛利氏や瀬戸内の海賊衆によって運ばれる兵糧米の運送にあたります。
天正5年(1577)には、織田勢の武将織田信忠の攻撃をうけ、貝塚道場はじめとする貝塚寺内町は、すべて焼き払われ壊滅してしまいます。
天正8年(1580)、石山本願寺はついに信長の軍門に下ることとなり、10年にわたる石山戦争が終結し、本願寺は石山から紀州鷺森へ退くことになります。」
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