二の丸門跡は二の丸の入り口として、虎口はやや南よりの西方白虎に開かれた切妻式櫓門が構えられていた。二の丸門虎口の縄張りの一部は、浅野長直に仕えた儒学者山鹿素行が、承応2年に変更したと云われている。

二の丸の面積は、1万7259坪で、二の丸門は櫓門で桁行四間半、梁行二間、口幅三間一歩、高さ二間、建坪の規模であった。

-

文久2年(1862)12月9日に、赤穂藩主森家の国家老森主税が藩改革を唱える藩士達に暗殺された。この事件は「文久事件」と呼ばれ明治4年の日本最後の集団仇討ち「高野の復讐〈和歌山県高野町〉」の発端となった。
ここに置かれている半畳ほどの二つの石は小石で叩くと「かんかん」と音をたてることから、誰云うとなく「かんかん石」と呼ばれているという。

-