知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

赤穂藩

大石頼母助屋敷門(赤穂藩)

大石頼母助良重は、大石内蔵助良雄の大叔父にあたる人物で家老職にあった。藩主浅野長直に重用され二の丸屋敷を構え、その妻は長直の娘を迎えた。

山鹿素行が赤穂に配流された際、素行はこの屋敷の一角で八年余りを過ごした。

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備考
平成10〜13年にかけて実施された二の丸庭園の発掘調査によって、頼母助屋敷の門跡のほか土塀基礎石列、建物礎石、上水道遺構などが見つかり、門は発掘調査によって見つかった遺構に基づき規模及び構造が検証され薬医門形式の屋敷門として平成21年に整備された。

片岡源五右衛門高房(赤穂藩)

側用人  児小姓頭
三百五十石
表門隊  行年 三十七歳

源五右衛門は、浅野内匠頭長矩公とは同年齢で、幼い頃から君側に召し出された寵臣であった。出世加増の少ない元禄時代に初め100石であった。棒禄が19歳で200石、24歳で300石、元禄12年(1699)正月には32歳で350石を給せられている。

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元禄14年(1701)3月14日内匠頭の登城に従い、江戸城に赴いた源五右衛門は下乗で供待中、主君の刃傷を知らされ、鉄砲洲上屋敷にとって返し、藩邸留守居の諸士に大事を伝え事態の収拾にあたった。
田村邸において切腹直前の内匠頭に拝顔、内匠頭も源五右衛門に気づいたが主従は共に声なく今生の別れを惜しんだのであった。

討ち入りの時は表門隊に属し、冨森助右衛門、武林唯七と三人組合って、真っ先かけて屋敷内に踏み込み、朱柄の十文字鎗をふるって戦った。細川家のお預けののち、二宮新右衛門の介錯で従容として切腹した。

赤穂城内武家屋敷

元禄15年(1702)の赤穂城内侍屋敷図によれば、家老格の重臣の屋敷は城の重要な門の近くに配置され、城の守りのために重臣達にそれぞれの門の警護を受け持たせていました。

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ここは清水門のおさえとして、坂田武右衛門(800石・組外・準家老格)の屋敷があったところです。

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現在は武家屋敷公園として、屋形は345平方メートルで武家門、築地塀井戸屋形、杉皮葺きあずま屋を配しています。

大石邸長屋門(赤穂藩)

この門は、浅野家筆頭家老大石内蔵助の一家三代が57年にわたり住んでいた大石屋敷の正面門長屋です。
間口約26.8メートル、奥行約4.8メートルの建物で、屋根瓦には二ッ巴の大石家の定紋がついており、かつては内蔵助と主税の親子が朝夕出入りし、また、元禄14年3月、主君の刀傷による江戸の悲報を伝える早打ちが叩いたのもこの門であった。

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大石邸庭園
元禄の昔、大石内蔵助・リク夫妻、主悦を始め子女らがそぞろ歩きをし、嬉々として戯れ遊んだ池泉鑑賞式回遊式の江戸初期の古庭園である。

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近藤源八宅跡長屋門(赤穂藩)

近藤源八正憲は甲州流軍学を修め、千石番頭の重職にあり、源八の妻は大石内蔵助良雄の祖母にあたり、大石家とは親戚関係にあったが、最初から義盟には加わらなかった。
源八の父である三郎左衛門正純も甲州流軍学者であり、兵法に則って赤穂城築城の縄張り設計を行った。

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備考
近藤源八宅跡長屋門は、「源八長屋」の愛称で親しまれ、現存している建物は長屋門の長屋部分で門部分は、大石良雄宅跡長屋門の斜め向かいにあったと考えられ、長屋部分を四戸分に別け、それぞれ下級武士の住宅として使われていました。
現在は、その内の北端部の一戸と南隣の一戸の一部屋が残されています。この長屋門は、十八世紀以降に建て替えられたものと推察されているが、当時は総長二十一間半(約42.3メートル)の長大な長屋門でした。
城内に残された江戸期の建物は大石良雄宅跡長屋門と近藤源八宅跡長屋門のみであり、疎石や、柱材、梁材、天井、瓦、壁等の一部を保存し、入り口部分の土間は、炊事場であったと考えられ、煙出し窓や、天井周囲に残された煤が当時の生活ぶりを偲ばせています。
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