浅野長直によって慶安元年(1648)から3年の歳月をかけて築かれた赤穂城は、近世城郭史上珍しい変形輪郭式の海岸平城です。
藩の家臣で軍学師範の近藤正純が設計し、そのうち二の丸門虎口の縄張は、軍学者であった山鹿素行の手が加えられたと伝えられ、城地は三方を山に囲まれ、東に千種川、南は瀬戸内海に面し、清水門の南にある船入りは船が出入りできました。
明治10年代頃の本丸門
本丸は中央に藩主の屋敷(本丸御殿)、南東部には天守台、南に庭園などがあり、本丸門、刎橋門、厩口門の3門と、天守台には天守閣は当初から築かれず4ヵ所の櫓台のうち東北隅櫓台のみ隅櫓が築かれ、ほかは横矢桝形として配されていた。
天守台
本丸大池泉
天守台から本丸跡を臨む
厩口門
浅野家時代には「厩口門」、森家時代には「台所門」と呼ばれていた。
藩の家臣で軍学師範の近藤正純が設計し、そのうち二の丸門虎口の縄張は、軍学者であった山鹿素行の手が加えられたと伝えられ、城地は三方を山に囲まれ、東に千種川、南は瀬戸内海に面し、清水門の南にある船入りは船が出入りできました。
明治10年代頃の本丸門
本丸は中央に藩主の屋敷(本丸御殿)、南東部には天守台、南に庭園などがあり、本丸門、刎橋門、厩口門の3門と、天守台には天守閣は当初から築かれず4ヵ所の櫓台のうち東北隅櫓台のみ隅櫓が築かれ、ほかは横矢桝形として配されていた。
天守台
本丸大池泉
天守台から本丸跡を臨む
厩口門
浅野家時代には「厩口門」、森家時代には「台所門」と呼ばれていた。