天文二年(1533)、日野城主蒲生定秀が城下町作りをした時、多くの鍛治師をここに住まわせ「鍛冶町」と名付けた。
天文十二年、種子島に鉄砲が伝わると、その数年後、定秀は刀鍛冶に鉄砲作りを命じ、新兵器「日野鉄砲」の製造地となったが江戸時代世の中が平和になるにつれて衰え、明治になって様式銃が入ってくると日野鉄砲は伝統の技術を生かすことなく歴史の幕を閉じた。

-

鞍子の辻
滋賀県日野下鍛冶町会所どなりの西の辻は「鞍子の辻」と呼ばれている。
日野城下町の頃、馬の鞍を作る職人の鞍工が住んでいたため名付けられたもので、当時馬に付ける道具は戦いに使用する刀や槍と共に武士にとって大切な物だった。また、日野鉄砲を作る際、人手が早く必要なため、この辻の細い道を上下鍛冶町の鉄砲師たちが槌を持って行き来したので「合槌の辻」ともいわれている。