21名が赤穂の城下町や城内に屋敷を構えていた。現在は民家や公園、空き地などになっているが、それぞれの義士宅跡には義士を紹介する説明板と石標が立っています。


「藩士総登城大評定
主君長矩切腹江戸藩邸の接収などの凶報に内蔵助は藩士三百余人に総登城を命じ十九、二十、二十一の三日間更に二十七、八、九日と城中大広間で大評定が行われた。籠城論、復讐説、開城論、殉死嘆願説など連日に互って斗わされ、結局無血開城ということとなったが内蔵助に従う者五十余人に過ぎなかった。」

大石瀬左衛門信清宅跡

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「無念の城あけ渡し
四月十九日幕府の収城使竜野藩主脇坂淡路守は大手門から四千五百人備中足守の城主木下肥後守は塩屋門から千五百人の軍勢を引き連れて入城、内蔵助らは本丸玄関で上使を迎え赤穂城はここに無事あけ渡された。内蔵助は三代五十七年間のお城に名残を惜しみつつ無念の涙のうちに退出していった。」

岡野金右衛門包秀宅跡

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「祇園一力茶屋
内蔵助は城あけ渡しの残務整理も終わった六月の末赤穂を退去して山科の家へ移り播州や上方或いは江戸の同志と連絡をとりながら浅野家の再興に努力をすると共に上野介に対する復讐の計画も進めた。そして吉良や上杉のスパイの目をくらますため連日祇園や島原に入りびたって遊びほうけた。」

間喜兵衛光信宅跡

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「恋の絵図面取り
神崎与五郎の営む小豆屋善兵衛の小間物屋に手代として住込んでいた岡野金右衛門は若くて美男子で独身であったからいつしか吉良邸出入りの大工棟梁の娘お艶と恋仲となり、この事を幸いに吉良邸の絵図面を入手しようとお艶の父親が普請のとき作った屋敷の図面を持ち出させて討ち入りのとき役立たせたという。」

岡嶋八十右衛門常樹宅跡

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「炭小屋にいた上野介
戦うこと約二時間目指す上野介はどこへ雲隠れしたか見付からなかった。しかし午前六時頃台所に続く炭小屋に隠れていた上野介に間十次郎が一番槍武林唯七が一番太刀をつけ小屋の外へ曳き出し合図の呼子笛で一同が集まった。
そこで上野介が止めの一刀を刺し一番槍の十次郎が首を挙げて目出度く本懐を遂げた。」