天柱山 安国頼久禅寺
臨済宗永源寺派に属し、足利尊氏が諸国に命じて建立させた安国寺の一寺である。境内には寺号になった中興の開基松山城主上野頼久、戦国期織田信長の中国制覇と毛利一族の中央進出戦いである備中兵乱で天正三年(1575)悲運の死をとげた備中松山城主三村元親、一子勝法師丸等の墓がある。

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小堀遠州
天正七年(1579)、近江国小堀村生まれる。幼名を作助といい、長じて政一と称した。父の逝去後、松山城を預かり備中の国政を司る。
茶道、建築、造庭の巨匠として名を馳せ、駿府城普請奉行を務め従五位下遠江守に叙任され、以後遠江にちなんで遠州と通称される。
備中松山城を再建し、他に名古屋城天守、後陽成院御所造営等の作事奉行を務める。
幼少の頃から茶道に励み、宗甫、孤篷庵と号し「きれいさび」を確立し後世に影響を与えた。

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この庭園は小堀遠州の作庭で、蓬莱式枯山水庭園で愛宕山を借景し、白砂敷の中央に鶴島、後方に亀島の二つの低い築山状の島を置いて石を組み、書院左手の山畔に沿ってサツキの大刈込みで青海波を表現した庭園である。

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鶴島は石組を中心に周囲をサツキの刈込みで中島景観を表現し、亀島は亀の姿を具象的に表現している。
このような築庭様式は桃山から江戸初期に好まれたもので現在まで旧態のまま保存されている。

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       頼むこと 久しき寺の 林泉に なびくいみじき 秋の霧かな
                                        与謝野晶子

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