知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

飛騨高山

撮影旅行

昨年度の撮影旅行で特に印象深く脳裏に浮かぶのは、

第3位は北海道、1月23日出発、
三ヶ月前にANAと札幌のホテルを予約した、それは札幌雪祭りが近づくと予約が取れないことも、また、飛行運賃が安い。後のホテル予約は前日に決めた。札幌から旭川間は座席指定が良い、他の路線は特急券のみで座れる。

 旭川駅

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 紋別

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 名寄

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第2位は、飛騨高山と古川、9月15日出発、
飛騨高山は今回で5回目の訪問となるが古川は初めて、高山は観光客が多いが古川は静かだった。
2日で歩くこと高山5時間、古川3時間、

 高山城跡

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 古川街並み

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第1位は、高梁と倉敷、4月23日出発、
倉敷は2度目の訪問となる、高梁は駅から松山城登城口のある「ふいご峠」までタクシーの予約をしておいた。
この時期は松山城以外は観光客は少ない。

 高梁

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 倉敷

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高山城趾

古川から11時台の鉄道はなくバスにて高山に戻り、高山城跡に登ってみることにした。

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二之丸屋形跡

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水手門跡

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搦手之門跡

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標高686.6メートル、通称城山、別名を臥牛山、巴山ともいう。金森入国以前は「天神山城」と呼ばれ飛騨の守護代である多賀出雲守徳言によって文安年間(1444〜49)に築城され、近江の多賀天神を祀ったことから多賀天神山、城は多賀山城と呼ばれた。永正年間(1504〜21)には高山外記が在城していた。
拾間櫓跡

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本丸屋形跡

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備考
天正十三年(1585)七月、金森長近は豊臣秀吉の命を受けて飛騨へ侵攻し、翌年飛騨一国を賜った。城地として最初は鍋山城を考えたが、後、天神山古城跡を選定した。飛騨の中央にあり、東西南北の街道が交差する最も適所と考えたのである。

築城は天正十六年(1588)から初め、慶長五年(1600)までの十三年で本丸、二之丸が完成し、以後、可重によって更に三年で三之丸が築かれた。高山城は織田信長の安土城構築直後に築かれ、大きな影響を受けている。
軍事的機能を最優先させた城ではなく、御殿風の古い城郭形式をもち外観二層、内部三層の構造をもつ天守を備えているのが特徴で、秀吉の大阪城築城以前における城郭史上初期に位置づけられる。

本丸屋形には台所、風呂、大広間、茶室などがあった。南の大手方面には南之出丸、北の搦手方面には東北曲輪、中段屋形が配置される。

飛騨国分寺(2)

国分寺鐘楼門
安土桃山時代の建築とされ、屋根は柿葺であったが銅板葺とした。屋根の軒は一軒疎垂木、妻は木連格子である。上層は円柱で簡素で力強い組物をもち、勾欄を廻す、下層は角柱六本でそれぞれ面取がしてある。
梵鐘には永正十一年(1514)の古銘があり、もとは吉城郡荒城郷三日町(現国府町三日町)の十王堂の鐘であった。宝暦十一年(1761)、大萱村横山作助が改鋳して寄進した。

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樹齢千二百年といわれる大銀杏
国分寺のイチョウの葉が落ちれば雪が降ると云われているようだ。

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国分寺悲母観世音菩薩
悲母観音像は高山市出身の中村久子女史の父母孝養のため悲願建立され、女史は幼い頃両手・両足を失いながらもあらゆる苦難を克服し、日本全国の身体障害者の力となり昼夜をわかたず指導激励され全国の人々から母のように慕われているという。

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飛騨国分寺(1)

国分寺表門(山門)
元文四年(1739)八月、飛騨代官長谷川忠崇の手代小林儀右衛門ら四名の寄進により飛騨の名工松田太右衛門が建てた。
冠木上に架せられた板蟇股や腕木の操り形にこの地方中期の好例を残しており形態も美しい。

棟札‥鑢擇硫蔀疾沼Δ妨喫源庸八月の創建棟札、大工松田太右衛門、葺屋冨田喜兵衛、内山傳四
     郎
   棟木の下端東側に享和三年の葺替棟札、葺師前原平蔵

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三重塔

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飛騨国分寺塔跡
飛騨国分寺は天平十三年(741)の詔により天平勝宝九年(757)頃までには完成していたらしく、この心礎は創建当時のものと推定される。
礎石の形状はほぼ方形を呈し、上面に円柱座を造り出し、その中央部に円形の穴があけられる。礎石の寸法は約2メートル四方で、高さが1メートルである。円柱座は径が1.33メートル高さ1センチメートル、円穴径58センチメートル、深さ29センチメートルで枘穴式心礎である。石質は地元で「松倉石」といわれるリュウモン岩である。

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飛騨のさるぼぼ

願掛け 「なでさるぼぼ」
飛騨地方では、母親が我が子の無事成長を願って「さるぼぼ」人形を作ったと云い伝えられています。
石は古来より永遠不滅で魂が宿ると言われており、この「願掛けさるぼぼ」に願いを込めてなでると念願が叶うという石像です。

☆ 頭をなでると、頭が良くなる。
☆ 心臓をなでると、出世ができる。
☆ 身体の不自由なところをなでると、その場所が良くなる。
☆ その他、商売繁盛、身体健全、学業成就等の加護があると云い伝えられている。

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「さるぼぼ」人形

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手長像足長像

嘉永元年、名工谷口与鹿は出雲神話による、素戔鳴命(スサノオノミコト)と結ばれた奇稲田媛(クシナタヒメ)の父、足名稚(アシナズチ)を足長に、母、手名稚(テナズチ)を手長に具象化彫刻し、高山祭屋台恵比須に取り付けたものを模したものである。

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弥生橋の歴史
第二十三代飛騨代官増田作右衛門が安政五年(1858)に赴任し、急ぎ架設を決めた橋が安政六年に完成した。弥生三月に通行できるようになったと喜びをもって弥生橋と命名された。付近に丸木の引き渡しの橋もあったが橋脚を備えた架設はこれを創始とする。

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備考
弥生橋付近は、護岸の整備が繰り返された所であり、明治初頭に就任した高山県知事梅村速水も、その補強に腐心している。洪水のたびに弥生橋が流失し、その都度復旧してきた。
昭和10年6月の大洪水で流失した弥生橋と破壊された護岸は昭和11年に高山町と大名田町が合併し高山市発足の際の優先工事として昭和12年に永久橋として完成した。
平成になり老朽化と交通路整備のために幅員を拡げて平成14年この弥生橋が架橋完成した。

櫻橋

昔、この橋を筋違橋といった。
橋の両たもとが外側に開き、高欄擬宝珠付きの優雅な橋であった。擬宝珠は、中橋と京橋にしか付けることが許されなかったといわれるが、いつの頃からか櫻橋も擬宝珠付きの橋となった。

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吉島家住宅(重要文化財)
この町屋は名工とうたわれた西田伊三郎の手によって明治40年に竣工した。当時はすでに幕府の禁制はなく江戸時代の豪商の夢が自由に表現されている。
かつて、アメリカの建築界の巨匠チャールズ・ムーアが来日したとき、彼は庭園では京都の西芳寺(苔寺)、建築ではこの吉島家をあげ絶讃した。その意匠と構成は華やかさの中にも品格に満ち、その細部の手法の質また極めて高く、この地方の町屋の典型を示しているばかりでなく、わが国の民家の中で最も優れたものの一つである。

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火垣(国指定重要文化財)
この板塀の右側上部に立ち上がっている袖壁は、防火用の塗壁で火垣という。吉島家北川面に設けられ建物全体を他所から、特に北西の方面からの延焼を防ぐ為のもので、何時頃から作られ始めたか不明であるが明治初年には考案されていたものと考えられる。

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飛騨山娘

飛騨山娘   吉村比呂詩

   妾(わた)しや 奥飛騨 山娘 
     都はなれた山里の 深い谷間に咲いた花
       人に知られぬ 山つゝじ

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琴高童子像   日展会員 藪内佐斗司

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〈作者のことば〉
古記録によると19世紀初頭にはすでに存在していたとされる高山の琴高台は、中段欄間の鯉の彫り物をはじめ伊達柱や緋の大幕など鯉尽くしの屋台として有名です。

屋台名は、中国の周代の仙人のひとりである琴高が赤い鯉に乗ってやって来るという故事に由来します。
わたしは、琴高仙人を老人ではなく生まれたばかりの童子のすがたに作りました。それは、不老長生の術を体得していることを表しています。また、手には神出鬼没の行動力を示す風車と知恵のお経を持ち、あたまには仏のご加護の象徴である蓮の葉っぱを被っています。

中橋の畔で

中橋(なかばし)は、岐阜県高山市本町一丁目と上三之町を結ぶ宮川に架かる橋で擬宝珠や欄干をそなえ全体を朱色にまとった特徴を持つことから赤い橋とも呼ばれる。

高山が城下町として栄えていた時代に架けられた橋であるが、幾度か水害により流失している。現在の橋は1925年(大正14年)に架け直され、1965年(昭和40年)に現在の形に改造されたものである

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陣屋だんご店(みたらしだんご) 行列が絶えない店

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車屋さんの派犬社員(ミニチュアダックスフンド)

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三町伝統的建造物群保存地区

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この日は高山市内を4時間歩き、ホテルは温泉付き、やはり温泉は疲れがとれる気がする。

飛騨高山から古川へ

飛騨高山から古川を歩いてきました。
高山は4度目になるが古川は初めて、何時もどんな所か想像するが期待を裏切ることが多い。

 高山駅

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 野麦峠

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