高松城とは、
備前国に通じる平野の中心地、しかも松山往来(板倉宿から備中松山城へ至る)沿いの要衝の地にあり天正10年(1582)の中国役の主戦場となった。
城は沼沢地に望む平城(沼城)で石垣を築かず土壇だけで築成された土城である。城の周辺には東沼、沼田などの地名に象徴されるように沼沢が天然の外堀をなしていたことが窺われる。

 本丸跡

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播磨三木城と因幡鳥取城の陥落によって織田軍と毛利軍の最前線は備前と備中の国境に前進した。
毛利側の境目七城(高松城・宮地山城・冠山城・加茂城・日幡城・庭瀬城・松島城)を秀吉軍は次々と落としていったが本城の高松城だけは攻めあぐねた。
天正10年5月、秀吉率いる軍勢三万は高松城を取り囲み宇喜多軍なども攻め込むが力攻めすることができなかった。

そこで、黒田官兵衛の進言といわれる水攻めに取りかかった。約2.7キロの堤防を築き足守川水を引き入れ高松城を湖の孤城にした。
6月3日に、毛利方に向かう光秀の密使を捕まえて、信長の死を知った秀吉は、そのことを隠して高松城主清水宗治の切腹を主張して講和を結ぶように説いた。
6月4日、清水宗治は湖上に小舟を浮かべて自刀し、織田方と毛利方の和睦が成立した。

宗治辞世の句
   「 浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して 」

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二ノ丸跡あたりを望む

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古来、本丸と二ノ丸の間に蓮池の名が残されており沼の復元によって自然に生えた宗治蓮

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