知音の旅人

誰人であっても誕生と同時に 人生と云う旅に出て 目標に辿り着こうとする旅人である

高野街道

天誅組

文久3年(1863)8月17日未明、三日市宿に太鼓や鐘が鳴り響いた。公家 中山忠光を盟主とする尊皇攘夷派の志士の一行が天皇の大和行幸を契機として倒幕の兵を挙げる大和五条に向かうため、油屋に到着したのであった。

彼らは休息し、この間に体勢を整えた。当時、当主の油屋庄兵衛は三日市近在の村からの人足徴用や駕籠の手配など、彼らの世話をしたと語り伝えられている。

-

早朝一行は、観心寺に向かい楠公首塚の前で決起した。その後、千早峠を越え、夕刻、五条代官所を襲撃し「五条新政府」の名乗りをあげた。

しかし、京では「八月十八日の政変」により彼らを支援していた長州藩や公家の三条実美等が失脚し天皇の行幸は中止となり彼らは目的を失い転戦するも幕府軍に追撃鎮圧されてしまう。

この事件が「維新の先駆け、天誅組」である。
時代が明治へと大きく動く5年前のことであった。

三日市宿(八木家住宅)

高野街道三日市宿 八木家住宅

八木家は、江戸時代に高野街道の宿場町として栄えた三日市宿にあり、かつては木綿問屋を経て酒造が営まれ、米の露・味香一正宗が醸造され「東家屋」という屋号が続いています。

-

母屋は木造平屋建て、町屋の伝統的な外観を留めています。鴨居や天井の特徴から18世紀後半に建築されたものと考えられています。

-

土蔵は、木造二階建で外壁面には漆喰が塗られ下半分に焼杉の板が張られ、窓には銅板の扉が各階に設けられています。建築年代は不明ですが造りなどから19世紀後半に建築されたと考えられています。

-

常夜橙(高野街道三日市宿)

弘仁七年(816)弘法大師(空海)は真言密教の道場として高野山を開き以来、皇族、貴族から信仰は篤く、たくさん参拝されました。
時を経て、高野街道が整備されるとともに、諸大名や一般庶民の参拝者が増えて、徳川幕府は大坂と高野山の中間地点でもある当地に三日市宿を設置し、この後、旅籠等が建ちならぶ伝馬宿駅としてたいへん賑わいました。

-

この常夜橙は、その賑わいの往時、明和七年(1770)六月に建立されたものです。

旧三日市交番

高野街道沿いにある旧三日市交番は、建築面積12坪ほどの木造2階建ての建物です。
大正10年の建築とみられますが市の記録によれば昭和27年に修理されたようです。

-

さらに近年、一部屋根瓦の葺替え、正面扉がアルミ製引違い戸に変えられるなど、建築当初の様子を良く留め、近年まれとなった大正時代の木造派出所の様子を伝える建築として貴重なものとなっています。

-

 三日市村役場跡

-

鳥帽子形城跡(高野街道)

高野街道を進むと右側に鳥帽子形城跡の登り口が見えてくる。

-

鳥帽子形城跡は、喜多町所在の通称鳥帽子形山の頂上部にある戦国時代の山城跡です。
この城跡には戦国時代の山城の特長である自然の丘陵を改変してつくりだした迫力のある土塁や空堀が残っています。
この城は応仁の乱の前から河内国の守護大名を務めた畠山氏という大名によって使われていました。

-

畠山氏が衰えた後は、三好長慶、織田信長、羽柴秀吉なども関わった合戦で使われました。合戦の様子は、当時の知識人が書き残した日記や江戸時代の書物などに描かれているようです。

高野街道

東高野街道と西高野街道は河内長野で合流して高野街道となります。

-

-

河内長野駅前を南下して国道371号線を横断すると上り坂となって三日市宿へと続く。

-

奥河内の玄関口、河内長野駅は大阪難波から30分、大阪の南東部、緑あふれる河内長野周辺は奥河内と呼ばれています。

酒蔵(西條合資会社)

西高野街道と東高野街道が合流する河内長野、市内唯一の造り酒屋「西條合資会社」は高野街道を挟んで北側に酒蔵と事務所があり、南側には国の登録文化財となっている旧店舗主屋と土蔵があります。
この建物は、「サカミセ」と呼ばれる旧店舗と、それに付属する桟瓦葺きの土蔵からなっています。

-

三軒茶屋大常夜燈籠(旧高野街道)

江戸時代の東家・橋本と紀の川渡(紀伊国名所図会から)

-

高野街道は古くは九度山町の慈尊院から町石道を登った。その後、御幸辻から南下して竹内川(橋本川)河口付近から紀の川を渡って当地に至り学文路から高野山へ登っていく道がひらかれた。

天正15年(1587)応其上人は紀の川に橋本の地名の由来となる長さ130間の橋を架けたが、紀の川増水により3年後に流失し、橋に代わって舟による横渡が行われるようになった。

-

この紀の川南岸渡場に建つのが大常夜燈籠で、のちに北側にも同様のものが建ち無銭横渡が行われた。

この紀の川の上流、吉野川にも渡しがあった

あらぎ島

あらぎ島を見下ろすこの道は高野街道、以前歩いた堺の大小路から紀ノ川を越えた高野街道は有名だが有田方面からこの地を通って高野山に至る道も高野街道である。

あらぎ島


同時に紀州の殿様、頼宣公が龍神温泉に湯治に通ったこの道が龍神街道、この地の住民にとって塩鯖などの食料品などを運んだ生活道であり「さば街道」と呼ばれた。
和歌山城と龍神温泉の中間地点になる。

所在地 和歌山県有田郡有田川町三田

高野街道

西高野街道は堺から歩き始めて河内長野で東高野街道と合流して高野街道となる。
今日で7回目最終回となる予定だったが参加できない人が複数いて延期となった。

高野山


それにしても熱い日も寒い日もよく歩いたものだ。
記事検索
おきてがみ
blogram
blogramによるブログ分析
足あとを残せます。
後ほど訪問致します☆
Archives
  • ライブドアブログ