小諸義塾は明治28年11月、幕臣でありながら維新後アメリカに渡り、13年間の留学で西欧の新しい文化とキリスト教の信仰を身につけた木村熊二が小諸の青年小山太郎らの熱意ある要請にこたえて誕生させた私塾であります。
校舎群は信越線が開通して間もない明治29年、小諸駅の南側に当記念館を本館として建設されました。

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当初は高等小学校を卒業した青年達が、塾長木村熊二の卓越した見識を慕って集まった家塾的な塾でしたが、その後小諸町の積極的な助成や木村の理想に深い共感を寄せた勇士達の支援により、明治32年には県の認可を得て私立中学へと発展してきました。
しかし、日清・日露の戦いを契機として中央集権的な学校制度が整えられるにつれ自由な教育の枠は狭まり、本義塾の教育もついに、13年の歴史をもって閉じざるを得なくなったのであります。

−個性にみちた教師たち−

島崎藤村(1872〜1943)
明治学院本科卒業後、明治32年4月旧師木村熊二の招きにより英語・国語の教師として28歳で赴任する。同年、妻、冬と結婚、小諸町馬場裏に住む。
教師の傍ら明治34年に第四詩集「落梅集」を刊行、その後自然主義文学に転じ「旧主人・薬草履・爺・老婆・水彩画家」などを次々発表する。
小諸義塾着任以来小諸の風土や小諸義塾の生活を題材にした「千曲川スケッチ」は当時の小諸の様子を生き生きと今日に伝えている。

三宅克己(1874〜1954)
明治32年丸山晩霞にひかれて来諸、図画教師として着任する。明治大正にかけての水彩画の先駆者。丸山晩霞とも親交があり、義塾において島崎藤村とは絵画や文学の上でのよき友であった。

丸山晩霞(1867〜1942)
小県郡袮津村の出身、養蚕農家の次男として生まれる。18歳で上京、水彩画を学び明治32年欧米に渡る。明治35年、三宅克己の後任として義塾教師となる。日本水彩画研究所の開設に尽力する。水彩画家小山周次は塾生以来の弟子である。

鮫島晋(1852〜1917)
東京大学物理学科第一期卒業、東京物理学校創立者の一人である。明治28年小諸義塾の教師となり数学・物理・科学などを教える。ぼうようとして物事に頓着しない性格で閉塾後も長く塾生に愛され、義塾の最後まで深いかかわりを持った教師である。